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では、ワインでアルゼンチンを変えたエチャルト一族の場合はどうだろうか。一族は、成功にご満悦だが、彼らが造ったのは、ロランが手がけ、パーカーが高得点を付け、世界的に認知されたワインだ。そんな彼らは、先住民をいささか蔑視するような発言をする。するとノシターは、彼らとは対照的な生産者を訪ねる。亡父が純粋なインディオだったその生産者は、先祖代々の痩せた土地を守り、ぎりぎりの生活で良質なもうひとつのアルゼンチンワインを造りつづけているのだ。
ノシターはまた、ワイナリーに雇われた労働者の待遇にもわずかながら関心を寄せているが、そのことに関連して、ここで注目したいのが、"ミュール"と呼ばれる麻薬の運び屋を題材にしたジョシュア・マーストン監督の『そして、ひと粒のひかり』だ。この映画のヒロインは、コロンビアの田舎町で母や姉と暮らし、家計を支えるためにバラ農園で働く17歳のマリアだ。外の世界に憧れる彼女は、妊娠を知り、マネージャーともめて農園を辞めたことをきっかけに、ミュールとなる。マーストンは、綿密なリサーチをもとに、そんなマリアの苛酷な体験をドキュメンタリーのように描き出していく。
それは、ソダーバーグの『トラフィック』で浮き彫りにされたグローバリゼーションの世界を、ひとりの娘の視点から克明に描いたドラマともいえる。だが、マーストンがリサーチしたのは、ミュールや麻薬市場だけではない。マリアが働くバラ農園にも注目する必要がある。彼女はそこで切りバラの棘を抜く作業をしていた。それは、効率だけが優先される非人間的な流れ作業で、映画では言及されないが、農園から出荷されたバラはアメリカに送られる。バラ農園の背景には、コロンビアやエクアドルがアメリカ市場に攻勢をかけ、アメリカ国内の産業を駆逐していったという歴史がある。つまり、彼女は、その時点ですでにグローバリゼーションに取り込まれているのだ。
グローバリゼーションによって、地域社会や家族は崩壊していく。マリアには、農園以外に仕事がない。家族は、彼女を労働力としか見ていない。そして、そういう現状を見越して、ミュールのスカウトが巡回してくる。彼女は、グローバリゼーションの深みにはまり、ミュールとなってニューヨークに飛ぶ。だが、体内のコカインの粒を回収するために、ニュージャージーのモーテルに閉じ込められているときに、機内で体調を崩していた先輩のミュールが処分されたことに気づき、クイーンズに住むその先輩の姉に救いを求める。彼女がそこに見出すのは、コロンビア人のコミュニティでもある。
そんな展開から筆者が想起するのは、『モンドヴィーノ』に登場するアメリカ人の輸入商ニール・ローゼンタールのことだ。彼は、ブランドを批判し、テロワールに情熱を注いでいる。そんな彼が、ブルックリン経由でクイーンズにある倉庫にノシターを案内する場面は印象に残る。彼は、ハシディズム派のユダヤ人たちが行き交う地域を通過したとき、そういう人々が生き残っている場所こそがテロワールなのだと語る。さらに、この映画では労働者が口を開くことはほとんどないが、彼の従業員のハイチ移民たちは、故郷のマンゴーの木を例に挙げて、テロワールについて饒舌に語る。おそらくは彼らも自分たちのコミュニティに支えられているのだろう。
そうしたエピソードを踏まえるなら、『そして、ひと粒のひかり』のマリアは、グローバリゼーションによってテロワールを破壊された故郷を旅立ち、クイーンズでそれを発見し、自己とその責任に目覚めていくともいえるのだ。
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