表層的な家族の幸福と個人のアイデンティティの軋轢から本質的な絆へ
――『めぐりあう時間たち』と『ホーリー・スモーク』をめぐって


めぐりあう時間たち/The Hours―――――― 2002年/アメリカ/カラー/115分/ヴィスタ/ドルビーDTS
ホーリー・スモーク/Holy Smoke――――― 1999年/アメリカ=オーストラリア/カラー/115分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:「Cut」2003年6月号、映画の境界線22、若干の加筆)


 

 

 マイケル・カニンガムの同名小説をスティーヴン・ダルドリー監督が映画化した『めぐりあう時間たち』(原題はともに“The Hours”)で、筆者が最初に注目したいのは原作者のことだ。ゲイ・フィクションの作家としても注目されるマイケル・カニンガムの作品を振り返ってみると、どうも彼は三つのものが生みだすコントラストに特別なこだわりを持っているように思えてくる。

 長編デビュー作の『この世の果ての家』の物語は三部からなり、クリーブランドのサバービア、大都市ニューヨーク、牧歌的なウッドストックというそれぞれの舞台が、新しい家族のかたちを模索する三人の男女の重要な背景となる。ふたりの若者は、サバービアで家族の崩壊を体験すると同時にゲイのアイデンティティに目覚め、ニューヨークでは彼らに10歳以上年上の女性が加わる。三人は、過去を引きずりながらも、両親とは違う絆を探し求める。そして、ウッドストックでは、三人に彼らの赤ん坊が加わり、新しい家族のかたちが浮かび上がってくる。

 二作目の『Flesh and Blood』では、ギリシャから移民した祖父とイタリア系の祖母に始まる三世代の家族の軌跡が描かれる。彼らは、三人の子供に恵まれ、郊外化の黄金時代である50年代にロングアイランドのサバービアに家を持つが、次第に家族の結束が失われていく。

 堅実な長女は早々と結婚し、ニュージャージーのサバービアで理想の家庭を築こうとするが、いつしか罪悪感もなく不倫を経験し、子供を身ごもり、母親となる。事あるごと父親と対立してきた長男は、大学に進学するとまったく家に戻ってこなくなる。彼は大学の仲間の影響で名前を変え、ゲイであることに目覚めていく。子供の頃から心を閉ざしていた次女は、家族から浮き、ニューヨークの友人のところに入り浸る。彼女はそこで出会ったドラッグ・クイーンを母親とみなすようになり、ドラッグとセックスにのめり込んだあげくに、黒人との混血の子供を産み、未婚の母となる。

 三つの舞台、三人の男女、三世代、そして三人の兄弟姉妹。カニンガムは、ゲイの視点も盛り込んだ三つのもののコントラストを通して、アメリカン・ファミリーの画一的な幸福と個人のアイデンティティとの軋轢、そして、人間と人間の本質的な絆を描きだしてきた。

 そして、カニンガムが『Flesh and Blood』の次に発表した作品を映画化したこの『めぐりあう時間たち』にも、三つの時代があり、三人のヒロインが登場する。1923年、病気療養のためにロンドンからリッチモンドに転居し、『ダロウェイ夫人』を執筆しているヴァージニア・ウルフ。1951年、ロサンジェルスに広がっていくサバービアのなかで、『ダロウェイ夫人』を読み耽る妊娠中の主婦ローラ。2001年、『ダロウェイ夫人』と同じ名前を持つ編集者で、ニューヨークに暮らし、エイズで死に行く友人の作家の面倒をみているクラリッサ。映画では、異なる時代を生きる彼女たちの一日が交錯していく。

 この三つのドラマには、創造が招く孤独と家族の絆、都市と田舎やサバービアでの生活、同性愛的な感情をめぐる葛藤など、様々なテーマを見出すことができる。ヴァージニアは、田舎での隔離されたような生活に追い詰められ、ローラはサバービアの表層的な生活に絶望する。レズビアンのクラリッサは、大都市で恋人と暮らし、人工授精で娘を産み、新しい家族のかたちを作り上げているが、そこに死に行く友人との関係が暗い影を落としていく。

 冒頭からカニンガム作品における三つのものへのこだわりについて長々と書いてしまったが、実は監督のスティーヴン・ダルドリーの世界もまた三つのものと無縁ではない。彼の初監督作品『リトル・ダンサー』では、主人公のビリーとその一家が、サッチャー政権と全国鉱山労組の間で繰り広げられる死闘の真っ只中にいる。彼らには勝利か敗北しかない。そこでビリーがバレエをやりたいと言い出すことは、家族やコミュニティに対する裏切りにもなりかねない。この映画の感動は、そんな二者択一の厳しい状況のなかで、家族が第三の道を切り開いていくところにある。

 そんなダルドリー監督にとって、カニンガムの『めぐりあう時間たち』という原作は、非常に興味深い題材だったに違いない。なぜなら彼は、この物語に二者択一と第三の道という図式を見出しているからだ。

 隔離されたような生活で追い詰められたヴァージニアとサバービアの表層的な生活に絶望したローラは、生きるか死ぬかの二者択一を迫られる。そんな彼女たちのドラマで見逃せないのは、ヴァージニアが彼女を訪ねてきた姉を、ローラが突然の入院に不安を隠せない親友を激しく求める瞬間があるということだ。そこには、同性愛に基づく他者との絆という、ありえたかもしれないもうひとつの未来を垣間見ることができる。そしてクラリッサは、そんな第三の道を歩んできた人物として存在し、死にゆく友人との関係の始まりに想いを馳せることによって、ローラやヴァージニアと繋がり、異なる時代の三つの物語はひとつになっていくのだ。


 
―めぐりあう時間たち―


◆スタッフ◆
 
監督   スティーヴン・ダルドリー
Stephen Daldry
原作 マイケル・カニンガム
Michael Cunningham
脚本 デヴィッド・ヘア
David Hare
撮影 シーマス・マッガーヴェイ
Seamus McGarvey
編集 ピーター・ボイル
Peter Boyle
音楽 フィリップ・グラス
Philip Glass

◆キャスト◆

ヴァージニア・ウルフ   ニコール・キッドマン
Nicole Kidman
ローラ・ブラウン ジュリアン・ムーア
Julianne Moore
クラリッサ・ヴォーン メリル・ストリープ
Meryl Streep
レナード・ウルフ スティーヴン・ディレイン
Stephen Dillane
ヴァネッサ・ベル ミランダ・リチャードソン
Miranda Richardson
クエンティン・ベル ジョージ・ロフタス
George Loftus
ダン・ブラウン ジョン・C・ライリー
John C. Reilly
キティ・バーロウ トニ・コレット
Toni Collette
リチャード・ブラウン エド・ハリス
Ed Harris
サリー・レスター アリソン・ジャネイ
Allison Janney
ジュリア・ヴォーガン クレア・デインズ
Claire Danes
ルイス・ウォーターズ ジェフ・ダニエルズ
Jeff Daniels
バーバラ アイリーン・アトキンス
Eileen Atkins
(配給:アスミック・エース)
 
 
―ホーリー・スモーク―


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ジェーン・カンピオン
Jane Campion
脚本 アンナ・カンピオン
Anna Campion
撮影 ディオン・ビーブ
Dion Beebe
編集 ヴェロニカ・ジャネット
Veronika Janet
音楽 アンジェロ・バダラメンティ
Angelo Badalamenti

◆キャスト◆

ルース・バロン   ケイト・ウィンスレット
Kate Winslet
P・J・ウォータース ハーヴェイ・カイテル
Harvey Keitel
ミリアム ジュリー・ハミルトン
Julie Hamilton
イボンヌ ソフィー・リー
Sophie Lee
ロビー ダン・ワイリー
Dan Wyllie
ティム ポール・ゴダード
Paul Goddard
ギルバート ティム・ロバートソン
Tim Robertson
パス ケリー・ウォーカー
Kerry Walker
キャロル パム・グリア
Pam Grier
(配給:松竹)
 
デル株式会社
 

 一方、ジェーン・カンピオンの『ホーリー・スモーク』では、画一的な幸福と個人のアイデンティティの軋轢や本質的な絆という主題が、ブラック・コメディのスタイルで浮き彫りにされる。

 オーストラリア人のヒロイン、ルースは、友人とインドを旅行している間に出会った教祖に魅了され、修行にのめり込み、教祖との結婚も本気で考えるようになる。それを知った家族は慌てふためき、父親が危篤だと嘘をついて彼女を連れ戻すと同時に、アメリカから腕利きの脱会カウンセラーP・Jを呼び寄せる。

 カンピオンがまず注目するのは、ルースを取り戻そうとするその家族とは何かということだ。家族が暮らしているのは絵に描いたようなサバービアだ。父親は危篤の芝居に飽きて、ゴルフをしている。騙されたことに気づいたルースは、その父親からカツラを剥ぎ取る。彼女は父親が秘書と浮気していることを知っている。

 カンピオン姉妹がこの脚本に肉付けした小説では、確か母親は整形している。映画で、娘を連れ戻すためにインドを訪れた母親は、教団の集会の前に髪の匂いをチェックされるのを見ただけで動転し、激しい勢いでその場から逃げだす。脱会のカウンセリングに協力するルースの兄嫁イボンヌもかなり危ない。彼女は頭のなかで映画スターたちを思いながらセックスし、だんだん相手が誰だかわからなくなるという。彼女は出会ったときからP・Jに目をつけ、機会を逃さず誘惑する。

 そして、この映画でそんな家族の対極にあるのが、砂漠の世界だといえる。カウンセリングは砂漠のなかにぽつんと建つ家で行われる。家族には別に深い考えがあったわけではなく、親戚が持っている家を借りたに過ぎない。しかし、デッド・ハートやアウトバックと呼ばれるオーストラリアの奥地は、ミッドナイト・オイルの80年代の曲<デッド・ハート>や『ピクニックatハンギングロック』、『プリシラ』のような映画、ニコラス・ジョーズの小説『The Custodians』などが物語るように、オーストラリア人の深層と結びついている。

だから、カウンセリングが成功しても、ルースは表層的な家族に復帰することなどない。デッド・ハートのなかで女と男は、そんな家族にはない本質的な絆の探究を始めてしまうからだ。そして、ルースの探求はやがて家族すら飲み込んでいくことになるのである。


(upload:2013/10/09)
 
 
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