いまある世界が失ってしまったものを呼び覚ますために
――『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』と『ゲルマニウムの夜』をめぐって


エリ・エリ・レマ・サバクタニ/Eli,Eli,Lema Sabachthani?― 2005年/日本/カラー/107分/シネマスコープ/DTS 5.1ch
ゲルマニウムの夜/The Whispering of the Gods―――― 2005年/日本/カラー/107分/ヨーロピアンヴィスタ/DTSステレオ
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(初出:「Cut」2006年1月号、映画の境界線53、若干の加筆)

 

 

 青山真治監督の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』と大森立嗣監督の『ゲルマニウムの夜』には、いまある壊れかけた世界を乗り越えようとする物語が目指す方向性に共通点がある。どちらの作品も、ただ新しい世界を切り開くのではなく、いまある世界が失ってしまったものを呼び覚まそうとするのだ。

 『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』に描かれる2015年の世界には、都市部を中心にウイルスが蔓延している。それは視覚映像によって感染し、発病すれば自殺を余儀なくされる。富豪のミヤギは、感染した孫娘ハナを救うために奔走し、ふたりの男が生み出す音に発病を抑制する効果があることを知る。そのふたり、ミズイとアスハラは、東京を離れ、自然のなかで音を探す生活を送っていた。

 この映画の題名は、「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」という十字架のイエスが発した問いを意味する。青山監督は、森敦の作品集『意味の変容』に収められた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」からタイトルをとった。彼はかつて、この短編に出てくるジャズ・サキソフォン奏者と牧師の話を映画にしようと考えたことがあったという。完成したこの映画の設定や人物はまったく違ったものになっているが、それでもこの短編と映画には深い繋がりがあるように思える。

 たとえばこの短編には、以下のような文章がある。「ジャズは必ずしも斬新であろうとするものではない。クラシックの精妙巧緻を粉砕して、始原をとり戻そうとするものである」。ふたりの男たちが見出そうとしている音は、始原を取り戻そうとするものとしてのジャズに近い。

 さらにもうひとつ、この短編の後半部分で森敦は、イエスが発した問いや、死と復活を宗教的に解釈するのではなく、生と死にも対応する内部と外部とその境界をめぐる数学的な考え方で解釈している。それを強引に要約すれば、生と死の狭間でイエスが問いを発することによって、境界よりも一次元高い空間が実現され、いままでの生が失われるのではなく、その高次の空間に蘇るということになる。そしてこの映画もまた、イエスと同じように見捨てられた者たちが、生と死の境界を越え、高次の空間に蘇る映画なのだ。

 ウイルスは視覚映像によって感染する。そんな映像の力を凌駕する音があるとすれば、それは間違いなく見えないものと共鳴する音だ。ミズイとアスハラは、そういう音の糸口を求めて、貝殻を吊るした角ハンガーやパイプを括り付けたモーターなどの楽器を作る。そして、アスハラまでもが見えないものとなってしまったとき、ミズイは、ハナを救うためだけではなく、見えないものと共鳴するために激烈なノイズを生み出す。

 大地を揺るがすそのノイズが、生と死の位相を変えていくとき、筆者の脳裏をよぎるのは、「訪れ」という言葉だ。この言葉には、たずねることだけではなく、声や音をたてるとか、声や音で合図するという意味がある。つまり、「音ずれ」だ。かつて人々は、音によって見えないものを感知した。

 この映画には、ミズイがノイズを生み出す前に、「音ずれ」に繋がるイメージが浮かび上がる場面がある。それは、アスハラの火葬の場面だ。砂浜、断崖と巨岩、海、そして炎。この場面には、神話的な、あるいは始原の世界を見ることができる。それは、人々が見えないものを感知する直観や想像力を備えていた世界だ。そんな世界のなかに葬られたアスハラは、ミズイのノイズによって再び姿を現す。そして、ノイズが消え去ったときそこには、生と死が遠く隔てられるのではなく、静かに響きあい、笑顔で向き合えるような新たな世界が切り開かれているのだ。


―エリ・エリ・レマ・サバクタニ―

 Eri Eri rema sabakutani
(2005) on IMDb


※スタッフ、キャストは
『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』レビュー
を参照のこと



―ゲルマニウムの夜―

 Gerumaniumu no yoru
(2005) on IMDb


      ◆スタッフ◆

監督   大森立嗣
脚本 浦沢義雄
原作 花村萬月
撮影 大塚亮
編集 奥原好幸
音楽 千野秀一

      ◆キャスト◆

  新井浩文
テレジア 広田レオナ
教子 早良めぐみ
トオル 木村啓太
宇川 大森南朋
津和孝行
隊長 大楽源太
赤羽修道士 山本政志
荒川 三浦哲郁
老店主 麿赤兒
小宮院長 石橋蓮司
戸川神父 佐藤慶
     (配給:荒戸映画事務所)
 
 


 一方、花村萬月の同名小説を映画化した『ゲルマニウムの夜』では、教会の教護院という閉ざされた世界が変貌を遂げていく。そこは、少年に手で奉仕させるような院長が仕切る教護院だ。主人公の朧は、かつてそこで育ち、社会に出て人を殺し、舞い戻ってきた逃亡犯だ。畜舎で働くことになった彼は、宗教や神を試すように、アスピラントと関係を持ち、仕事の先輩を暴力で調教し、神父を冒涜、嘲弄し、自分の王国を作ろうとする。

 この映画もまた音と無縁ではない。朧はゲルマニウムラジオを肌身離さず持ち歩き、イヤホンで神の声を聞く。だが、彼を動かすのは、神の声よりもむしろ匂いだ。この映画を観ていると、原作のなかでドン・セルベラ院長(映画では小宮院長)が朧に語るこんな言葉を思い出す。

五感のうち、匂い以外の四つは脳味噌の視床という部分をとおって大脳皮質のそれぞれの感覚野という部分に達して、甘いとか明るいとかうるさいとかいう感覚になるわけだ(後略)」「ところが、匂いの情報だけは脳味噌のなかでもっとも上等な働きをする部分、創造や思考を司り、人を人たらしめている前頭葉にまで辿りつくんだ」「そう。匂いは神様が与えてくださった最高の快楽なんだよ

 朧とアスピラントの教子は、関係を持つ前に、凄まじい臭気を放つ家畜の肥溜の前で足を止める。教子はその臭気に一瞬たじろぐが、生き物の匂いとして受け入れる。朧とシスター・テレジアは、厨房で多量の残飯をドラム罐に移す作業をしながら、次第に接近していく。朧と教護院で生活する少年トオルは、快楽を貪ると同時に、サイロのなかの発酵したサイレージと足の指の間にたまる垢が同じ匂いであることを確認しあう。

 匂いは、彼らの生理や感覚にダイレクトに働きかけ、内面に潜む欲望や衝動を目覚めさせる。匂いを共有することはある種の儀式となり、それによって人間と動物の境界が失われていく。院長などは最後には、動物に奉仕させるばかりか、動物にも奉仕する。

 この映画は、降りしきる雪のなかを、黒い牛が群れをなして進んでくる場面から始まる。迷いなく進むその牛の群れと、キリスト教の秩序を破壊し、動物化する人間の距離をどう解釈するか。それによって、朧が切り開く世界の意味も変わってくるだろう。

《参照/引用文献》
『意味の変容』森敦●
(筑摩書房、1984年)
『ゲルマニウムの夜』花村萬月●
(文藝春秋、1998年)

(upload:2010/05/24)
 
 
《関連リンク》
『EUREKA』 レビュー ■
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