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■■都市から郊外の実家に集まる家族の物語■■
感謝祭にまつわる映画といったときに、筆者の頭にすぐに思い浮かんでくるのは、ジョディ・フォスター監督の『ホーム・フォー・ザ・ホリデイ』(95)やニック・カサヴェテス監督の『ミルドレッド』(96)やバート・フレインドリッチ監督の『家族という名の他人』(97)といった作品だ。これらの映画では、感謝祭の週末に両親の家に集まった家族のドラマが描かれる。
『ホーム・フォー・ザ・ホリデイ』では、クローディア、トミー、ジョアンという3人の兄弟姉妹が、家族や恋人を連れて、ボルティモアの郊外にある両親の家に顔を揃える。だが、家族の間には様々な溝があり、感謝祭の食卓は混乱に陥っていく。絵の才能で何とか身を立てようとするクローディアやゲイのトミーと、銀行員と結婚して堅実な人生を歩むジョアンは、昔から犬猿の仲で、すぐに喧嘩を始める。母親も、息子がゲイであることをなかなか受け入れられない。その母親の期待を一身に背負ってきたクローディアは、古美術修復技師の仕事をクビになったばかりで、内心ではかなり落ち込んでいる。
『家族という名の他人』では、ニューイングランドの郊外にある両親の家に、ウォーレン、ミア、ジェイク、リーという4人の兄弟姉妹が顔を揃えるが、感謝祭の食卓には気まずい空気が漂っている。これまで子供たちに対して独善的な態度をとってきた父親は、内心では親子の関係を修復したいと思っているが、その気持ちを表に出すことができない。そんな父親との軋轢が原因で、恋人と別れることになったウォーレンは、故郷で彼女と再会したことから、過去と向き合わざるをえなくなる。家族について何もいいことを思い出せないミアは、そんな家族になってしまったことに苛立ち、追い詰められ、自分を見失いかけている。
一方、『ミルドレッド』は、感謝祭を中心にしたドラマではないが、筆者には感謝祭が鍵を握っているように思えるので、ここに加えておきたい。ヒロインのミルドレッドは、夫が遺した郊外の家に娘のアニーと暮らす未亡人だが、アニーは母親がいつまでも自分を子供扱いするために家出してしまう。ひとりになったミルドレッドは、工場で働く隣人モニカの息子JJを預かり、自分の息子のように可愛がるようになる。そこで感謝祭の顔ぶれも変わる。そこにアニーの姿はなく、サンフランシスコに栄転が決まったイーサンとジーニーの息子夫婦、モニカとJJの母子が食卓を囲む。その息子夫婦は、あけすけで体面を気にしないモニカに当惑させられる。その感謝祭がどう鍵を握るのかは、また後に触れることにしたい。
離れて暮らしている家族が実家に集まり、食卓を囲む感謝祭。それは、家族、あるいは郊外の生活というものを掘り下げる格好の舞台になっているといってもよいだろう。
■■郊外の実家から都市に出ていく家族の物語■■
『ギルバート・グレイプ』の原作、脚本で注目を集めたピーター・ヘッジズの監督デビュー作『エイプリルの七面鳥』もまた、その導入部では、同じようなドラマが始まるように見える。ニューヨークのローワー・イースト・サイドにあるアパートで黒人の恋人と暮らすエイプリルは、もう何年も家族と会っていない。彼女は、郊外に住む典型的な中流である家族を嫌い、家族の方も問題ばかり起こす彼女のことを嫌っている。ところが、家族のなかでも特に仲の悪い母親が癌であることを知ったエイプリルは、感謝祭に母親の好きな七面鳥のローストを作るという一大決心をするのだ。
しかし、この映画では、感謝祭に家族が集まるという設定から、ドラマが意外な方向へと展開していき、最終的にはアメリカ社会や家族のあり方に対する見直しを迫るような新鮮な世界を切り拓いてしまう。では、どこが違うのか。注目すべきポイントはふたつある。ひとつは、家族が集まる場所である。この映画では、子供たちが実家に帰るのではなく、エイプリルの両親、弟妹、祖母が、郊外から彼女のアパートにやって来る。家族は、ピアスやタトゥーをした問題児が、閑静な住宅地で近所の恥さらしになるよりも、まずい料理を我慢する方がまだマシだと思っているのだ。そして、もうひとつのポイントは、驚くことに再会した家族のやりとりがほとんど描かれないことだ。家族が再会し、食卓を囲むときには、すでにエンドクレジットが流れだしている。つまり、車でニューヨークに向かう家族と、料理に悪戦苦闘するエイプリルのドラマを交互に描くだけで、見事にひとつの作品にまとめあげてしまうのだ。
このふたつのポイントは、最初に取り上げた3本の映画と対比してみると、その意味がより明確になるだろう。
■■郊外という閉ざされた世界のなかの感謝祭■■
『ホーム・フォー・ザ・ホリデイ』と『家族という名の他人』は、前者がコメディ・タッチで後者がシリアスなドラマであり、そのトーンはまったく違うが、共通する印象的な場面がある。それは、父親がひとりで、幼い頃の子供たちの姿を記録したホーム・ムーヴィーに見入る場面だ。感謝祭に集まる家族にとって、彼らがともに過ごした郊外の家とは、もはやその先がない閉ざされた世界である。郊外の生活は同じように続き、変化することはない。だから、壊れかけた家族が、何らかの救いや希望を見出すために踏み出せる方向は限られている。つまり、過去を見つめなおすということだ。
『ホーム・フォー・ザ・ホリデイ』の父親は、自分の不甲斐ない人生を心のなかで嘆いているが、子供たちと過ごした人生最高の思い出をクローディアと共有することで救われる。飛び抜けた才能と感受性に恵まれた少年を主人公にしたジョディの監督デビュー作『リトルマン・テイト』とこの監督第2作は、まったく異質な物語に見えるが、本質的には同じことを物語っている。誰かひとりが特別なのではなく、誰もがそれぞれに変わっている。その違いは対立を生み出し、お互いに憎み合うことにもなるが、それでも家族であることに変わりはない、ということだ。
これに対して、フレインドリッチ監督の『家族という名の他人』には、過去を乗り越え、閉ざされた世界から一歩踏み出そうとするドラマがある。かつて父親は、酔いにまかせてウォーレンの恋人を屈辱するような態度をとり、ふたりは別れることになった。父親への怒りを押さえ込んできたウォーレンは、そんな過去が甦ったかのような状況のなかで、ついに感情を露にし、父親を突き飛ばす。それはひとつのイニシエーションといってもよいだろう。
しかし、この映画でさらに興味深いのは、娘のミアのドラマだ。家族について何もいいことを思い出せないミアは、ある架空の物語に引き込まれることで、変わっていく。実家に戻っても、苛立ち、孤立している彼女は、偶然手にした小説を読み耽る。ところが、結末が近づいてきたところでページが破りとられていることに気づく。誰も読まないので、父親が焚付の代用にしてしまったのだ。田舎の書店では、同じ本がすぐに手に入るはずもないが、その代わりに彼女は、その小説を読んだことがある幼なじみに出会う。彼女は、彼のことをまったく覚えていなかったが、その架空の物語を共有することによって、次第に心を開いていく。そして、これまで否定的にしかとらえられなかった家族の記憶を、見つめなおしていくのだ。
これに対して、カサヴェテス監督の『ミルドレッド』では、ヒロインのミルドレッド自身が最終的に郊外という閉ざされた世界を出ていくことになるのだが、それは感謝祭と無縁ではない。かつて幼い子供たちに百科事典を読んで聞かせることを習慣にしていた彼女は、預かったJJにも同じことをする。そして感謝祭の前には、その由来を説明する。その昔、凍え死にそうに寒い日が続いたときに、先住民と清教徒が助け合うことにし、みんなで一緒に食べ、友だちになった。
ここでそんな由来から、『ホーム・フォー・ザ・ホリデイ』や『家族という名の他人』のドラマを振り返ってみると、皮肉なものを感じることだろう。家族は、均質化された郊外という閉ざされた世界に集まり、対立したりいがみ合ったりしているのだ。一方、ミルドレッドは、困っている隣人のモニカとJJに救いの手を差し延べ、彼らを感謝祭に招待する。それは、感謝祭に相応しい光景のように見えるが、実はそこには別な意味での皮肉がある。
ミルドレッドとJJの関係には、『ホーム・フォー・ザ・ホリデイ』や『家族という名の他人』における父親とホーム・ムーヴィーのそれに通じるものがある。彼女はJJを息子のように可愛がることによって、過去へと逃避しているのだ。しかしJJは記憶ではなく、生身の人間であり、両親もいる。だから現実を直視しなければならないときがくる。そのとき彼女は、閉ざされた世界のなかで、救いの手を差し延べられていたのはむしろ自分の方であったことに気づき、自分の意志で旅立っていくのである。
■■都市の多文化主義、そして感謝祭の由来という神話へ■■
ヘッジズ監督の『エイプリルの七面鳥』は、そんなもろもろのことを踏まえてみると、作品の魅力がより明確になるはずだ。先述したように、この映画ではふたつのドラマが対置されていくが、まず、郊外からニューヨークのエイプリルのアパートに向かう家族のドラマでは、閉ざされた世界のなかにある家族の姿が、辛辣かつユーモラスに描きだされる。そこには、記憶と死をめぐるエピソードがせめぎ合っている。車中の母親は、エイプリルについて美しい思い出がひとつもないとか、出された料理をいかに捨てるかとか、癌も娘のせいだと、鬱憤をぶちまける。彼女は、自分が存在することの証明であるかのように、自分の写真だけを集めたアルバムを持ち歩いている。車に同乗する祖母は、痴呆が進み、家族の名前すら思い出せない。一家は、途中で動物を轢いてしまい、その死骸を沿道の林に埋める。
母親が記憶に執着する背景には、固有の物語や記憶を育む土壌が決して豊かであるとはいいがたい画一的な郊外の世界がある。そして、彼女が死を意識すればするほど、その執着は激しくなり、エイプリルを責めることになる。しかし、家族が立ち寄った店のトイレで、ひとりの少女が母親に叱られて立ち尽くす姿を見かけたとき、彼女のなかにエイプリルの純粋な記憶が甦る。
これに対して、エイプリルのドラマからは、感謝祭に最も相応しい物語が生みだされる。彼女は、まさに家族が想像しているような料理を作っている。ところが、肝心のオーブンが故障していることに気づき、それを借りようと、アパート中のドアを片っ端から叩いて回るはめになる。そこでまず、病気の母親の話に心を動かされた黒人の夫婦が、料理を手伝ってくれることになる。彼女はさらに駆けずり回り、何とかオーブンも見つかるが、料理の途中で持ち主の機嫌を損ね、追い出されてしまう。そして、生焼けの七面鳥を抱えて途方に暮れる彼女に救いの手を差し伸べるのが、言葉も通じない中国系の一家なのだ。
そんなドラマには、特に印象的な場面がふたつある。ひとつは、階段に座り込み、途方に暮れるエイプリルの姿だ。それは、彼女の母親がトイレで見かける少女の姿にダブる。ふたりが再会するのは映画の最後だが、彼女たちの間にはそれ以前に目に見えない繋がりが生まれているのだ。そしてもうひとつは、エイプリルが中国系の子供たちに、感謝祭の由来を話して聞かせる場面だ。この映画では、オーブンの故障を契機とした思いもよらない出会いが、単に多文化主義という次元にとどまってしまうのではなく、さらに歴史を遡り、新天地で悪戦苦闘する清教徒に先住民が食べ物を分け与えたという感謝祭の由来を呼び覚ます。エイプリルは、救いの手を差し延べてくれた住人たちと、そんなアメリカ固有の神話的な物語を共有することによって、開かれた世界に踏み出しているのだ。
またさらに、ふたつのドラマから浮かび上がる動きのコントラストにも注目しておく必要があるだろう。ヘッジズが原作、脚本を手がけ、ラッセ・ハルストレムが監督した『ギルバート・グレイプ』には、町から動けないギルバートの家族が繰り広げる上下運動とヒロインが町にやって来る水平移動のコントラストがあり、ドラマを際立たせていた。筆者はそれをハルストレム独自の表現だと考えていたが、どうやらヘッジズにも引き継がれているようだ。この映画でも、エイプリルがアパートのなかでひたすら上下運動を繰り返すのに対し、家族は水平移動してアパートを目指し、実に印象的なコントラストを生み出しているからだ。
この神話的な物語は、エイプリルが郊外の実家に帰ったとしたら決して生まれることがなかったし、家族と彼女のドラマが対置されているからこそ、物語を他者と共有することの意味が明確になる。そして、この神話に支えられた世界のなかで、再会した家族はひとつになるのである。
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