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2作目の『クリミナル・ラヴァーズ』では、学校で顔見知りの生徒を殺したリュックとアリスという高校生が、死体を捨てるために森に入っていく。ところがそこで、"ヘンゼルとグレーテル"に酷似した状況に巻き込まれ、森の男に監禁されてしまう。リュックは現実の世界では、アリスと性的な関係を持つことができない。これは単に彼がゲイであることを意味するのではなく、問題はアリスが表層的な虚構に逃避し、そこから彼を操っていることにある。しかし彼は、現実に深く根ざした物語の世界で、支配と服従という力関係の洗礼を受けることによって、現実とすりかえられた虚構を見極め、心の痛みや罪悪感に目覚める。森の男は、失われたマチズモを象徴しているのだ。
■■性解放とマチズモ的な支配と服従の密接な結びつき■■
「ホームドラマ」と「クリミナル・ラヴァーズ」が、消費社会に組み込まれた欲望に対して、失われたマチズモが揺さぶりをかける映画とするなら、オゾンの新作「焼け石に水」は、欲望が消費社会に完全に取り込まれる以前の時代を背景に、性解放がいかに支配と服従というマチズモ的な力関係と密接に結びついていたのかを描く映画といえる。
ファスビンダーが19歳で書いた未発表の戯曲を映画化したこの「焼け石に水」では、60〜70年代あたりを背景に、セクシュアリティをめぐる支配と服従の関係が、室内に限定された4幕の悲喜劇として描かれる。登場人物は中年男レオポルド、若者フランツと彼の婚約者アナ、かつてレオポルドと暮らし、性転換手術を受けて女性になったヴェラの4人。4幕のなかで、レオポルドに支配されるフランツが、今度はアナを支配するというように、彼らの力関係が次々と変化していく。
原作の映画化にあたってオゾンは、最初にフランツを誘惑するレオポルドを、フランツの父親に近い年齢に変えている。そのレオポルドは、悪夢や物語の世界ではなく、現実の世界で思う存分、暴君ぶりを発揮する。そんな彼のマチズモ的な資質は、他の3人を性的な覚醒に導くが、やがてフランツやヴェラは変化する力関係のなかで宙吊り状態に追い込まれていく。抑圧を解かれたとき、彼らのセクシュアリティは揺らぎ、アイデンティティを見失うような孤立感に襲われるのだ。
面白いのは、そこで4人が並んで唐突にサンバを踊りだすことだ。それは、この映画の時代背景という枠組みを一瞬にして取り払うオゾン的マジックといえる。性的に宙吊りとなったフランツとヴェラは、それぞれにレオポルドに「自分が必要か?」と尋ねる。傲慢なレオポルドは「君が私を必要なのだ」という答を繰り返す。この彼の言葉は、本質的な欲望が失われつつある現代に対する、挑発的で皮肉なメッセージといってよいだろう。
■■マチズモをめぐる政治と同性愛の密接で皮肉な関係■■
そしてもう1本、キューバ人の亡命作家レイナルド・アレナスの同名自伝を映画化したジュリアン・シュナーベルの新作「夜になるまえに」も、マチズモと同性愛の関係に注目すべきものがある。時代背景は異なるが、キューバで同性愛者が厳しい抑圧にさらされてきた事実は、セネル・パスの原作を映画化した名作「苺とチョコレート」のドラマにも反映されている。
その「苺とチョコレート」では、ゲイの芸術家であるディエゴは確かに弾圧されていたが、彼に惹かれていく大学生ダビドとそれを止めようとする彼の親友とのやりとりにも、あくまで精神的な次元ではあるが同性愛的な雰囲気が漂っていた。「夜になるまえに」の原作と映画では、そんな雰囲気の背後にあるものが明確になっている。政府のマチズモ的な体質と同性愛が、相容れない対極ではなく、親密かつ皮肉な繋がりを持つものとして描きだされているのだ。
アレナスの原作では、政治と同性愛をめぐるこんな表現が様々にかたちを変えて繰り返される。
「60年代ほどキューバでセックスが盛んだった時代はないと思う。まさしくその時代に、同性愛者を取り締まる法律が公布され、同性愛者たちに対する迫害が猛り狂い、強制収容所が作られたのだった。まさしくその時代に、性行為がタブーと化し、<新しい人間>が褒めそやされ、マチスモが称揚されたのだ。フィデル・カストロに拍手を送りながら革命広場の前をパレードするあの若者たちのほとんどが、ライフルを手に軍人らしい顔をして行進するあの兵士たちのほとんどが、パレードのあとぼくたちの部屋に来て体を丸め、裸になって自分の本当の姿をさらけだした」
「何がキューバの性的抑圧を押し進めたのかといえば、まさしく性解放運動だったのじゃないだろうか。たぶん体制に対する抗議として、同性愛はしだいに大胆に広がっていったのだろう。(中略)率直に言って、同性愛者用の強制収容所や、その気があるかのように装ってホモを見つけ逮捕する若い警官たちは、結果として、同性愛を活性化していたにすぎないと思う」
「キューバ政府は実は男役のホモはホモと見なしていなかった」。
またアレナスはセックスについて、「性的関係の美しさは征服が自然であることに、そして、その征服がひめやかになされることにある」と書いている。キューバで長年に渡って厳しい弾圧にさらされたアレナスは、アメリカに亡命して自由を手にするが、性的関係については退屈だと明言している。アメリカでは同性愛の世界がカテゴライズされ、男同士がセックスでお互いにまったく同じことをする。ところがキューバでは、弾圧と矛盾するようだが、そんな枠組みはなく、だから自分と対照的な人間を探し求め、美しい関係を築くことができたというのだ。
シュナーベルの映画でも、もちろんこの政治と同性愛の繋がりに関心が払われ、原作の物語に独自の解釈も加えられている。特に映画で印象に残るのは、ジョニー・デップが、アレナスを監視し、再教育を強要するビクトル中尉と、刑務所の運び屋にして女装の麗人ボンボンの二役をこなしていることだ。ビクトルはアレナスの口に銃口を無理やり押し込み、ボンボンはアレナスの原稿を肛門から腸の奥に押し込むのだ。またアレナスが出国する経緯も象徴的だ。カストロがキューバからクズを追い払うことを決めたとき、アレナスはクズの代表であるホモとして審査を受ける。その審査では、やる方かやられる方かが運命の分かれ目となる。彼は、やられる方のホモであると認められ、作家と気づかれる前に念願の出国を果たすのだ。
キューバは同性愛に関する土壌が他の世界とは異質な部分ももちろんあるが、こうして「アメリカン・ビューティー」やオゾンの映画と「夜になるまえに」を対比してみると、マチズモをめぐって、抑圧と欲望の関係がいかに大きく変化しつつあるのかがわかるのではないだろうか。マチズモは現実社会のなかで、人間の平等の理念からすれば否定されるべきものだろう。しかし映画のなかでは、欲望が消費社会に完全にコントロールされつつある時代に、本質的な欲望を見直す契機ともなり得るのだ。
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