生身の身体とテクノロジー、そして私たちを覚醒させる“痛み”
――ドン・デリーロ、『コズモポリス』と『ホーリー・モーターズ』をめぐって


コズモポリス/Cosmopolis―――――――― 2012年/フランス=カナダ/カラー/109分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
ホーリー・モーターズ/Holy Motors―――― 2012年/フランス/カラー/115分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:Into the Wild 2.0 | 大場正明ブログ、2013年4月5日更新)

 

 


 奇しくも時期を同じくして公開されるデヴィッド・クローネンバーグ監督の『コズモポリス』とレオス・カラックス監督の『ホーリー・モーターズ』には、注目すべき共通点がある。二本の映画では、それぞれにニューヨークとパリを舞台に、白塗りのリムジンに乗った男、というよりもある意味でリムジンと一体化した男の一日が描かれる。

 ドン・デリーロの同名小説を映画化した『コズモポリス』に登場する28歳のエリック・パッカーは、投資会社を経営する大富豪で、そこがオフィスであるかのように巨大なハイテクリムジンから莫大なマネーを動かしている。そんな彼はなぜか2マイル先にある床屋を目指し、破滅へと引き寄せられていく。

 一方、カラックスにとって13年ぶりの新作長編となる『ホーリー・モーターズ』の主人公オスカーの仕事は少々謎めいて見える。彼が乗るリムジンの座席にはその日のアポの内容が記載されたファイルが置かれている。ただしアポといっても、人と会ったり、会合に出たりするのとは違う。

 オスカーは、リムジンに装備された衣装やカツラ、メイク道具などを駆使して、ファイルで指定された人物になりきり、指定された場所で指定された時間だけその人物を演じる。このある一日に彼は、銀行家、物乞いの老女、殺人者、死にゆく老人など11人の人物に次々と変身していく。

 ふたりの主人公に起こることはまったく違うが、この二本の映画が掘り下げているテーマは非常に近いところにあるといえる。

 『コズモポリス』はかなり原作に忠実に作られている(但し、『コズモポリス』試写室日記で触れたように、エリックをつけ狙う殺人者の告白は切り捨てられている)。そこで、まずは原作からテーマを確認しておきたい。それは、『ホーリー・モーターズ』にも通じているところがあるので、押さえておいても無駄ではないだろう。

 デリーロの原作を読むと、前半部分から主人公エリックが、共通するあるものに反応していることに気づく。たとえば以下のような文章だ。

彼らは高まっていくクラクションの中で座っていた。この騒音には何かがあった――敢えて彼が滅却したいと思わないような何か。それはある根本的な痛みの音、原初的な響きがするほど古い哀歌

運転席にいるシーク教徒は指が一本なかった。エリックは失われた指の付け根を見つめた。深刻で感動的な代物――歴史と苦痛を抱えた身体の欠損

なぜささくれはささくれと呼ばれるのだろう? これは中期英語アグネイルの変形。エリックはたまたまそれを知っていた。この言葉は苦悩や苦痛を意味する古英語に由来する

 この三つの引用に共通しているのは“痛み”だ。ではエリックはなぜ痛みに反応するのか。それはテクノロジーや生身の身体に対する彼の考え方に関係している。彼はこのように考えている。

彼は生身の体でここにいた――理論上は捨て去りたいと思っている構造体で。そう思いながら、彼はウェイトトレーニングで計画的に体を鍛え上げていた。彼は体を余分なもの、交換可能なものとして考えたかった。体は情報の波の列に変換可能だ。それこそ、彼が楕円形のスクリーン上で見ていたもの

進化のステップ――神経系統をデジタル・メモリー上に実際に配置するだけでよい。それはサイバー資本の大飛躍、人間の経験を拡張し、無限へと近づける――企業の成長と投資のための媒介、利益の蓄積と活発な再投資のための媒介として

 エリックの理想は、生身の身体を捨て去り、自分が情報に変換されることだ。しかしそう望むほどに、彼は痛みに惹きつけられ、そしてついには痛みによって覚醒する。

しかし、彼の痛みは不滅への夢を妨げていた。それは彼の特異性を決定づけるものだ」 「彼は自分を知るようになった。痛みを通して、変換しようのない自分を知った

 クローネンバーグはそんなテクノロジーと身体の関係を、巧みにハイテクリムジンを舞台にしたドラマに集約している。原作には彼が暮らすタワーについても印象的な描写があるが、映画ではリムジンだけを意識させる。原作ではエリックと愛人ディディのセックスは彼女の部屋で行われるが、映画では彼らの関係もリムジンの世界に取り込まれている。

 エリックはなにかをするためにリムジンを降りる必要がない。セックスも、主治医による診察もすべてそのなかですますことができる。だから本来なら、大統領のニューヨーク訪問によって渋滞している街を、のろのろ運転で床屋に向かう必要などない。なのになぜ床屋に向かうのか。それは、子供の頃に通っていた店だからだ。記憶には様々な喪失の痛みがつきまとうものだろう。

 デイヴィド・B・モリスは『痛みの文化史』のなかで、以下のように書いている。

もし将来誰かが、簡単に扱えて値段も安く、何の副作用もなく一生痛みを免れることができるような錠剤を発明したなら、私たちはただちに、人間であることの意味をあらためて捏造する作業に取りかからなければならないことだろう

 エリックにとってリムジンはそんな錠剤に等しい。しかし、彼はリムジンのなかで人間の意味を捏造することをやめ、根源的な痛みに魅了され、破滅とも解放ともいえる運命をたどることになる。


 

―コズモポリス―

 Cosmopolis
(2012) on IMDb


◆スタッフ◆
 
監督/脚色   デヴィッド・クローネンバーグ
David Cronenberg
原作 ドン・デリーロ
Don DeLillo
撮影 ピーター・サシツキー
Peter Suschitzky
編集 ロナルド・サンダース
Ronald Sanders
音響 ハワード・ショア
Howard Shore

◆キャスト◆

エリック・パッカー   ロバート・パティンソン
Robert Pattinson
ディディ・ファンチャー ジュリエット・ビノシュ
Juliette Binoche
エリーズ・シフリン サラ・ガドン
Sarah Gadon
アンドレ・ペトレスク マチュー・アマルリック
Mathieu Amalric
シャイナー ジェイ・バルチェル
Jay Baruchel
トーヴァル ケヴィン・デュランド
Kevin Durand
ブラザ・フェズ ケイナーン
K’Naan
ジェイン・メルマン エミリー・ハンプシャー
Emily Hampshire
ヴィジャ・キンスキー サマンサ・モートン
Samantha Morton
ベノ・レヴィン ポール・ジアマッティ
Paul Giamatti
(配給:ショウゲート)
 
 

―ホーリー・モーターズ―

 Holy Motors
(2012) on IMDb


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   レオス・カラックス
Leos Carax
撮影 キャロリーヌ・シャンプティエ
Caroline Champetier
編集 ネリー・ケティエ
Nelly Quettier

◆キャスト◆

オスカー   ドニ・ラヴァン
Denis Lavant
セリーヌ エディット・スコブ
Edith Scob
ケイ・M エヴァ・メンデス
Eva Mendes
ジーン/エヴァ カイリー・ミノーグ
Kylie Minogue
エリーズ エリーズ・ロモー
Elise Lhomeau
あざのある男 ミシェル・ピコリ
Michel Piccoli
アンジェル ジャンヌ・ディソン
Jeanne Disson
(配給:ユーロスペース)
 
デル株式会社

 

 
 
 
 

 一方、『ホーリー・モーターズ』の表現はもっと抽象的だ。この映画は、カラックス自身が演じる男が部屋で目覚め、映画館に通じる奇妙な扉を開くプロローグから始まる。そこに注目するなら、本編はカラックスの映画的記憶の集成と見ることもできる。だが、この映画のダイナミズムは、必ずしもそんな映画的記憶から生み出されているわけではない。

カラックスはプレスに収められたインタビューのなかで、以下のように語っている。「この映画は人間、動物、そして機械が絶滅に瀕するSFの一種かもしれません。共通の運命によって結びつけられ一体となった“神聖なるモーター”、徐々にバーチャル化される世界における奴隷。それは目に見えるマシーンやリアルな体験、行動が徐々に消えつつある世界です

 筆者にはこの「SFの一種」という言葉がしっくりくるし、実際にSFとして成功していると思う。成功しているとは、この映画に描かれる現実世界とは異なるもうひとつの世界が、言葉では表現しがたい説得力を確かに生み出し、私たちを引き込み、覚醒に導くということだ。

 この映画のなかでオスカーは様々な人物に変身していくが、その最初が銀行家なのは巧妙な配置だといえる。銀行家は子供たちに見送られて豪邸を出て、白いリムジンに乗り込む。そしてファイルで本日のアポを確認する。その光景には不自然さはない。

 しかし間もなく、オスカーがぼろをまとった老婆に変身してリムジンを降り、橋の上で物乞いを始めるところから、これが現実とは違うもうひとつの世界であることを徐々に理解することになる。たとえば、おそらくこの映画の世界では、白いリムジンはもはやステータスの象徴ではない。それは、ここで描かれるような仕事のために再利用されているに過ぎない。

 オスカーの一日を追うこの映画は、私たちに様々なことを想像させる。まず考えざるを得ないのは、オスカー(と彼の同業者)には帰るべき自分の家がないということだ。映画の冒頭で豪邸を出る彼は、前日の最後のアポに従ってひと晩、銀行家を演じていたことになる。そして一日の終わりには、アポに従って別の家に帰っていく。

 そういう意味では、オスカーが毎日、必ず戻る場所はリムジンだが、そこは仕事場でもある。彼が自分に戻るのは、アポとアポの合間、前の人物の衣装やメイクを取ってから、次の人物の準備にかかるまでのわずかな時間にすぎない。

 しかし、自分に戻るとはいってもその自分とは何者なのか。彼には家がないし、リムジンのなかにも彼自身の人生の痕跡は見当たらない。毎日、アポをこなしつづける彼は、『ダークマン』のように、誰でもあって誰でもない、どこにもいてどこにもいない存在になっている。

 さらにもうひとつ、奇妙かつ恐ろしい印象を与えるのが、アポでは、殺したり、殺されたり、病死したりする人間を演じても、死なないということだ。当たり前のように思えるかもしれないが、アポにおいて死なないこと、あるいは死ねないことには、含みを感じるというか、別な意味があるように思える。これは、身体が情報に変換されることとは違うが、さきほど引用した“不滅の夢”の極端な表現と解釈できないこともない。

 その不滅の夢はすでに書いたように無痛の地獄でもある。だからこそオスカーは自分の運命を呪うような行動をとるのだろう。たとえば、殺人者アレックスに変身した彼は、テオという標的の前に現れ、ナイフで首に切りつける。そして倒れたテオを自分そっくりの容姿に変えていく。そのとき、殺人者と犠牲者の境界は崩れていく。

 あるいは、アポでもないのに、リムジンを飛び出し、その朝、自分が演じていた銀行家を撃ち殺し、ボディガードに撃たれるが、それでも死ぬことはない。

 しかし、そんな世界に生きているからこそ浮かび上がってくる痛みが確かにある。それはたとえば、誰でもあって誰でもないもの同士が、アポのなかでお互いにささやかな好意を持つようになり、演技者の仮面を取ってから立ち去るまでの短い時間に想いを伝え合うことにともなう痛みであり、かつての恋人同士が、お互いのアポとアポの合間に偶然に出会い、ほとんど失いかけていた記憶を共有することから生まれる痛みである。

 私たちがそんな痛みに心を揺さぶられるのは、このもうひとつの世界がどこかで確実に私たちの世界と繋がっているからに違いない。

《参照/引用文献》
『コズモポリス』 ドン・デリーロ●
上岡伸雄訳(新潮社、2004年)
『痛みの文化史』デイヴィド・B・モリス●
渡邉勉・鈴木牧彦訳(紀伊國屋書店、1998年)

(upload:2013/04/17)
 
 
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