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これは意外な展開でもあった。これまでファラカンは、ヒトラーを賞賛したり、聖書とコーランから独自の解釈を作りあげてユダヤ教を汚れた宗教と公言してはばからないなどしばしばマスコミを賑わす人物だったからだ。しかも黒人を中心とした大学に引っ張りだことなったファラカンだったが、彼の講演は教義とアジテーションに終始し、
黒人の未来に対する具体的な展望は皆無だったという。それでも彼が支持された理由については、警察が手をこまねくドラッグ問題にネイション・オブ・イスラムのメンバーが積極的に取り組むこと、レーガン政権下の人種差別の広がり、そしてファラカン自身のパフォーマーとしての魅力などが上げられていた。
つまり、彼に対する支持については社会の保守化という要因が大きく作用し、実質的にはかなり漠然としたものなのである。
一方スパイクの場合には、筆者には『ドゥ・ザ・ライト・シング』の時点で非常に気になっていたことがあった。映画以外の場では、当たり前に過激な言動でメディアを挑発し、スポークスマンとしてのパフォーマンスを繰り返すにもかかわらず、映画になると極めて客観的で冷静な視点が際立つということだ。
この映画は、致命的な事件を引き起こすような差別意識を持った人物がひとりも登場しないにもかかわらず、猛暑のなかでそれぞれが正しいと信じることが少しばかり増幅すると、致命的な事件が起こることを鮮やかに描き、人々に覚醒をうながす。この冷静な視点は、映画以外の場の過激な発言とは全然違う。
ところがこの映画以後、監督スパイクはスポークスマンの立場に縛られ、映画はその本来の魅力を失っていく。それは映画の登場人物を見ればすぐにわかる。彼の作風は、物語をベースにするのではなく、それぞれの人物を掘り下げるところから物語が動きだすので、ひとたび歯車が狂うと人物がすべて人種や階層をめぐって図式的になり、形骸化し、生きた物語にならなくなるのである。
その究極の例が『マルコムX』だ。この映画については、下層の黒人の支持を集めたマルコムXを中流階級出身のスパイクが描くことに対して黒人社会の内側から反発が起こった。それでもスパイクが彼本来の冷静な眼差しで自分が信じるマルコム像を描けばよかったわけだが、スポークスマンの立場に縛られる彼は、
八方美人で内面の葛藤が見えてこない平凡で大味なマルコム像を作ってしまった。さらにロドニー・キング事件の引用も気になった。ファラカンが独自の展望ではなく、社会の背景ゆえに漠然と支持されたように、この映画も現実的な差別を強調することによって平凡なマルコム像に対する漠然とした支持を求めているように見えるからだ。
スパイクは、この『マルコムX』以後、自伝的な作品や小説の映画化を試みることで自己のスタンスを振り返り、着実に復調してきているが、ファラカンとの対照を通してスタンスを明確にしようとするこの「ゲット・オン・ザ・バス」は特に興味深いはずだ。
そこでまずは、ミリオン・マン・マーチにおけるファラカンの立場を明確にしておきたい。ファラカンの呼びかけによって行われたこのマーチは大きな成功をおさめたが、その内実は漠然としている。筆者は、このマーチの規模としての成功の背景には、『マルコムX』にも引用された91年のロドニー・キング事件、92年のロス暴動、
94年のO・J・シンプソン事件とこのマーチの直前に下されたシンプソンの刑事裁判における無罪評決などが作用しているように思える。マーチが具体的な展望ではなく、漠然とした団結心で人々を引きつけたということだ。
実際アメリカには、このマーチから1年、2年と時間がたち、実質的には黒人社会は何も変わっていないではないかという意見が出ている。またその理由として、これまで黒人の前進に貢献してきた女性を参加させなかったこと、ファラカンの先導によって排他的な憎しみの基盤を作ったのではないかという疑問、ゲイの黒人が参加しづらいヘテロの黒人の世界観に支配されていたことなどが上げられてもいる。
それでは、スパイクは映画を通してミリオン・マン・マーチをどう見ているのか。これまで書いてきたことを踏まえてみれば、ゲイのカップル、ユダヤ人の運転手、黒人女性の二人組など登場人物は興味深い。しかし正直なところ筆者は、この映画の前半部分に対して非常に抵抗をおぼえた。ドラマを形作る人物たちがあまりにも図式的であるからだ。
これでは、黒人の問題を浮き彫りにするための駒にすぎない。ところが、主人公たちが結局マーチに参加しないという結末に至って、そうした印象が見事にくつがえった。
黒人たちの価値観、立場の多様化をすべて反映したような人物たちが一台のバスに乗り合わせるという設定は、最初から現実感に乏しいが、なぜそんな設定を選んだのかが最後によくわかった。本来なら、彼らはそれぞれの手段でばらばらにマーチに参加し、それぞれのエゴを満足させるだけで帰ってきたはずだ。それは歴史的なマーチに参加したという記念にしかならない。
という意味では、この映画はマーチが実質的には表層的なものであることを暗黙のうちに物語っている。
つまり、スパイクにとってのミリオン・マン・マーチは、登場人物たちを乗せたバスがロスを出発したときに始まっていたのだ。しかもそのマーチはワシントンのそれのように一日で終わるものでもなく、また、バスに乗り合わせた三日間で終わるものでもない。スパイクが映画を通して言わんとすることは、三日間のバス旅行で彼らが共感しあい、ひとつになるというような甘いことではなく、
少なくとも同じ人種というものがお互いにどんなに違うものであるのかを肌身で知らなければ、何も始まらない。いくら規模が大きくても漠然とした団結では、何かを変える一歩すら踏みだすことはできないということだ。この映画は、スパイクがスポークスマンの呪縛から解放され、映画監督としてのスタンスと責任を再認識しているという意味で、彼のキャリアにとって大きな節目となる作品なのである。
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