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ところで、マルコムXを映画化しようとするスパイクに対して、反対派のバラカは、中流のニグロの自己満足のためにマルコムを犠牲にすることを許すわけにはいかない≠ニいうような表現で抗議している、この中流≠ニいう言葉には根深い背景がある。
アメリカでは、公民権法の成立以来、教育や職場などで黒人を優遇する措置や政策がとられ、その結果、社会進出を果たした黒人たちは中流化し、危険な都市のゲットーから郊外に流出する。一方、そうした政策の恩恵に与ることができなかった下層の人々はゲットーに残され、二極分化が進行した。
そしてレーガン政権以降の保守化政策は、富める者と貧しい者の格差をさらに大きく広げている。
そんな状況で黒人のコミュニティのスポークスマンになるのはひどく難しいことである。もちろんここで、経験がそのまま映画になるなどというつもりは毛頭ないが、『ジャングル・フィーバー』に描かれるドラッグ問題からは、自己の主題とスポークスマンとしての義務感のはざまでバランスを崩しつつあるスパイクの姿を垣間見る思いがする。
それは、ジョン・シングルトンが自己の体験をもとに、23歳でデビューを飾った『ボーイズン・ザ・フッド』と対比してみるとよくわかる。
『ボーイズン・ザ・フッド』は、ドラッグによる抗争が絶えず、荒廃が進むロスのサウス・セントラルを舞台に、暴力と背中合わせに暮らす3人の若者の成長を描いている。二極分化ということでいえば、下層の人々に焦点が絞られているわけだ。しかしもちろん、シングルトンにすれば彼の世界そのものということになる。
向こうのある雑誌に、シングルトンの面白いコメントが載っていた。自分が生きている世界にまつわる映画を、カンサス出身の田舎者に台無しにされてはたまらないというものだ。これはデニス・ホッパーの『カラーズ』のことを指している。その環境のなかで生きているわけでもないのに、
どうやってその環境を映画にするのかというシングルトンの見解は、ひとつ間違えばただ偏狭なだけの意見ともなりかねないが、少なくともこのデビュー作を観るかぎり、彼の見解には頷けるものがある。
特に環境という言葉が効いている。舞台となるサウス・セントラルの街では、始終銃声が轟き、パトカーが走り回り、ヘリの騒音が静けさを破り、強烈な照明が闇を切り裂く。しかしそこには、アクション映画の要素はほとんど介在していない。騒音は映画の空気のなかに同化し、
観ているだけでも次第に不穏な圧迫感を感じてくる。まさに環境という表現がぴったりなのだ。
ドラッグの問題もまたしかりである。3人の主人公のひとり、アイス・キューブ扮する若者は、成長してヤクの売人になるが、スパイクが強烈なコントラストの映像と役者の熱演で描くドラッグの世界よりも、アイス・キューブが路上でさり気なくヤクをさばく光景の方が、妙に迫ってくるものがある。
またこの映画には、父親が子供の成長に責任を持たなければならないというメッセージが込められている。幼年時代のシングルトンの家庭は貧しく、両親は結婚せず、彼は母親と暮らし、週末は父親と過ごすという生活を送っていたという。この映画にはそうした体験が反映されていることになる。
シングルトンが意識しているかどうかは定かでないが、この父親と子供という主題も歴史的に根深いものがある。最近筆者は、マイク・タイソンの伝記を読んでいたのだが、タイソンの母親ローナが離婚し、彼女が次に一緒に暮らすことになった男は、16人の子供の父親で、子供たちはそれぞれの母親と暮らしていたという。
都市に残された下層の黒人たちには(奴隷制という遠因もあって)、親子の絆が希薄になりがちだともいわれるが、シングルトンはそんな事実と問題を、風景として切りとっている。
『マルコムX』の前書きによれば、マルコムの主張は、抑圧された黒人の下層大衆に強くアピールする一方、黒人の中流は彼のことを激しき嫌悪し、恐れたとある。『ジャングル・フィーバー』と『ボーイズン・ザ・フッド』の違いは、そんな黒人社会の二極化を象徴しているのである。
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