黒人社会の二極分化を象徴する2本の映画
――『ジャングル・フィーバー』と『ボーイズ’ン・ザ・フッド』をめぐって


ジャングル・フィーバー/Jungle Fever――――― 1991年/アメリカ/カラー/132分/シネスコ
ボーイズ’ン・ザ・フッド/Boyz'n the Hood―――― 1991年/アメリカ/カラー/111分/ヴィスタ
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(初出:「CITY ROAD」1991年12月号、若干の加筆)


 

 

  アメリカで黒人監督による映画がこれまでにない盛り上がりを見せていることは、いまさら繰り返すまでもないだろう。スパイク・リーの『ジャングル・フィーバー』とジョン・シングルトンの『ボーイズン・ザ・フッド』は、 そうした動きを背景に、今年(1991年)のカンヌ映画祭で注目を浴びた作品である。

 スパイク・リーといえば、『モ・ベター・ブルース』では、ユダヤ人のジャズ・クラブ経営者の表現をめぐって、ナット・ヘントフらに叩かれ、『ジャングル・フィーバー』も、アメリカでの評判が芳しくなく、 さらに今度はマルコムXの生涯の映画化をめぐって、アミリ・バラカや彼が率いる「マルコムXの遺産を守る統一戦線」に噛みつかれ、果てはアポロ劇場で映画化に抗議する集会が開かれるなど、『ドゥ・ザ・ライト・シング』以降、何かと揉め事が多く、旗色もあまりよくない。

 新作の『ジャングル・フィーバー』は、確かに欠点も目立つが、少なくとも筆者は楽しむことができた。これは『ドゥ・ザ・ライト・シング』が公開されたときにも書いたことだが、スパイク・リーという監督は、 映画の外に出てしまうと、当たり前に過激な発言が目立つために、毎度黒人のコミュニティのスポークスマンになってしまうが、実際の映画となると、そうした価値観とは距離を置いて作品を作る。このギャップが、 当たり前の過激さと黒人側から見た価値観に基づく作品を期待する人々の誤解を招いているのではないかと思う。

 『ジャングル・フィーバー』では、アフリカ系とイタリア系アメリカ人という異なる人種の男女の恋愛と、それに対して彼らの家族や周囲の人間がどのような反応を示すかが描かれているが、ふたりの主人公の設定がなかなか興味深い。 一方は妻子とともに中流の上ともいえる豊かな暮らしを送る有能な黒人建築家で、他方は労働者階級のイタリア系家庭の娘だ。ふたりは建築家と秘書という立場から関係を持つにいたるのだが、スパイクは、人種、階級、 生活環境といった要素を織り交ぜながら、彼らの恋愛の純度を巧みに計測していく。

 建築家の心のどこかには、白人女性に対する密かな羨望があるし、一方、ベンソンハーストにくすぶっている親兄弟やはっきりしないボーイフレンドに囲まれている娘にとって、白人の会社で唯一の黒人として辣腕をふるう建築家には魅力がある。そんな外的な要素がどこかでふたりの関係を微妙に歪めているのだ。 しかも周囲の人々は、そうした羨望や魅力に反比例するように反発を強めていく。

 冒頭でこの映画に対する悪評云々と書いたが、確かにこの作品から欠点を見つけ出すことは難しいことではない。

 たとえばこの作品では、スパイクがドラッグ問題を大きくクローズアップしている。建築家の兄はヤク中で、主人公たちの恋愛と並行するように、彼は更正することなく悲惨な運命をたどっていく。『ドゥ・ザ・ライト・シング』の公開時、スパイクは、 どうしてドラッグの問題を取り上げないのかという質問に対し、映画の主題に関係ないと自信を持って答えていたが、この『ジャングル・フィーバー』では、果たして異なる人種のあいだの恋愛に、その問題が関係しているのだろうか。どうも筆者には、彼が無理してドラッグ問題を取り上げているように思えてならない。 映画のラストで建築家が、ヤク中の娘を抱きかかえてノー≠ニ叫ぶシーンは印象的ではあるが、それは同時に、映画の主題を曖昧にするための叫びにもなっている。

 またこの映画では、ヤク中の兄、あるいは、建築家の狂信的な父親や優しい母親、主人公の男女と彼らの友人など、みなあまりにも図式化されすぎている。建築家の両親に扮するオジー・デイヴィスとルビー・ディーは、 『ドゥ・ザ・ライト・シング』のダ・メイヤーとマザー・シスター役のときの方が遥かにリアルな存在感を放っていることは、誰の目にも明らかである。しかもそんな調子で、やはり人種の壁は厚かったというような結末が準備されているとなれば、不満も当然といえば当然である。

 しかしそんな欠点を踏まえても、この映画が面白く観られるのは、これらの欠点を逆説的に証明するような影の主人公の存在によるところが大きい。それは、建築家に走った娘に捨てられるイタリア系のボーイフレンドと、彼が働くドラッグストアの常連で、ベンソンハーストに暮らす黒人女性である。 このふたりは、映画のなかで傍観者のように寡黙だが、表の主人公たちとは対照的に、自分たちの置かれた状況を踏みしめるかのように、ゆっくりと歩み寄っていく。

 そして最後に、ジョン・タトゥーロ扮するイタリア系の若者は、差別に凝り固まった父親を振り切り、イタリア系の隣人たちの暴力による妨害を乗り越え、 黒人女性の家にたどり着く。この映画の欠点を、内気なイタリア系の若者が、彼女の家にたどり着くまでのドラマを描くための捨石とみるならば、『ジャングル・フィーバー』は感動的な映画ですらある。

 ところで、マルコムXを映画化しようとするスパイクに対して、反対派のバラカは、中流のニグロの自己満足のためにマルコムを犠牲にすることを許すわけにはいかない≠ニいうような表現で抗議している、この中流≠ニいう言葉には根深い背景がある。

 アメリカでは、公民権法の成立以来、教育や職場などで黒人を優遇する措置や政策がとられ、その結果、社会進出を果たした黒人たちは中流化し、危険な都市のゲットーから郊外に流出する。一方、そうした政策の恩恵に与ることができなかった下層の人々はゲットーに残され、二極分化が進行した。 そしてレーガン政権以降の保守化政策は、富める者と貧しい者の格差をさらに大きく広げている。


―ジャングル・フィーバー―

 Jungle Fever
(1991) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本/製作   スパイク・リー
Spike Lee
撮影 アーネスト・ディッカーソン
Ernest Dickerson
編集 サム・ポラード
Sam Pollard
音楽 テレンス・ブランチャード
Terence Blanchard

◆キャスト◆

フリッパー   ウェズリー・スナイプス
Wesley Snipes
アンジー アナベラ・シオラ
Annabella Sciorra
ドクター オジー・デイヴィス
Ossie Davis
ルシンダ ルビー・ディー
Ruby Dee
ゲイター サミュエル・L・ジャクソン
Samuel L. Jackson
ポーリー ジョン・タトゥーロ
John Turturro
ルー アンソニー・クイン
Anthony Quinn
ドリュー ロネット・マッキー
Lonette Mckee
ヴィヴィアン ハル・ベリー
Halle Berry
サイラス スパイク・リー
Spike Lee
(配給:UIP)


―ボーイズ'ン・ザ・フッド―

 Boyz n the Hood
(1991) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本   ジョン・シングルトン
John Singleton
撮影

チャールズ・ミルズ
Charles Mills

編集 ブルース・キャノン
Bruce Cannon
音楽 スタンリー・クラーク
Stanley Clarke

◆キャスト◆

トレ   キューバ・グッディング・ジュニア
Cuba Gooding Jr.
ダウボーイ アイス・キューブ
Ice Cube
リッキー モーリス・チェスナット
Morris Chestnut
フューリアス ローレンス・フィッシュバーン
Laurence Fishburne
ブランディ ニア・ロング
Nia Long
リーヴァ アンジェラ・バセット
Angela Bassett
(配給:コロンビア・トライスター)
 
 

 

 そんな状況で黒人のコミュニティのスポークスマンになるのはひどく難しいことである。もちろんここで、経験がそのまま映画になるなどというつもりは毛頭ないが、『ジャングル・フィーバー』に描かれるドラッグ問題からは、自己の主題とスポークスマンとしての義務感のはざまでバランスを崩しつつあるスパイクの姿を垣間見る思いがする。

 それは、ジョン・シングルトンが自己の体験をもとに、23歳でデビューを飾った『ボーイズン・ザ・フッド』と対比してみるとよくわかる。

 『ボーイズン・ザ・フッド』は、ドラッグによる抗争が絶えず、荒廃が進むロスのサウス・セントラルを舞台に、暴力と背中合わせに暮らす3人の若者の成長を描いている。二極分化ということでいえば、下層の人々に焦点が絞られているわけだ。しかしもちろん、シングルトンにすれば彼の世界そのものということになる。

 向こうのある雑誌に、シングルトンの面白いコメントが載っていた。自分が生きている世界にまつわる映画を、カンサス出身の田舎者に台無しにされてはたまらないというものだ。これはデニス・ホッパーの『カラーズ』のことを指している。その環境のなかで生きているわけでもないのに、 どうやってその環境を映画にするのかというシングルトンの見解は、ひとつ間違えばただ偏狭なだけの意見ともなりかねないが、少なくともこのデビュー作を観るかぎり、彼の見解には頷けるものがある。

 特に環境という言葉が効いている。舞台となるサウス・セントラルの街では、始終銃声が轟き、パトカーが走り回り、ヘリの騒音が静けさを破り、強烈な照明が闇を切り裂く。しかしそこには、アクション映画の要素はほとんど介在していない。騒音は映画の空気のなかに同化し、 観ているだけでも次第に不穏な圧迫感を感じてくる。まさに環境という表現がぴったりなのだ。

 ドラッグの問題もまたしかりである。3人の主人公のひとり、アイス・キューブ扮する若者は、成長してヤクの売人になるが、スパイクが強烈なコントラストの映像と役者の熱演で描くドラッグの世界よりも、アイス・キューブが路上でさり気なくヤクをさばく光景の方が、妙に迫ってくるものがある。

 またこの映画には、父親が子供の成長に責任を持たなければならないというメッセージが込められている。幼年時代のシングルトンの家庭は貧しく、両親は結婚せず、彼は母親と暮らし、週末は父親と過ごすという生活を送っていたという。この映画にはそうした体験が反映されていることになる。

 シングルトンが意識しているかどうかは定かでないが、この父親と子供という主題も歴史的に根深いものがある。最近筆者は、マイク・タイソンの伝記を読んでいたのだが、タイソンの母親ローナが離婚し、彼女が次に一緒に暮らすことになった男は、16人の子供の父親で、子供たちはそれぞれの母親と暮らしていたという。 都市に残された下層の黒人たちには(奴隷制という遠因もあって)、親子の絆が希薄になりがちだともいわれるが、シングルトンはそんな事実と問題を、風景として切りとっている。

 『マルコムX』の前書きによれば、マルコムの主張は、抑圧された黒人の下層大衆に強くアピールする一方、黒人の中流は彼のことを激しき嫌悪し、恐れたとある。『ジャングル・フィーバー』と『ボーイズン・ザ・フッド』の違いは、そんな黒人社会の二極化を象徴しているのである。


(upload:2004/02/28)
 
 
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