17歳を切りとる監督たち
――物語の喪失から虚構の変質、そして物語の再生へ


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(初出:「キネマ旬報」2000年9月上旬号、若干の加筆)

 

 

 ■■空虚な世界を生きる若者たち■■

 「ジェネレーションX」の著者ダグラス・クープランドは、彼のエッセイ集『Polaroids from the Dead』のなかで、このようなことを書いている。人間と他の動物との違いのひとつは、人間が物語を必要としていることだ。ところが、第二次大戦後に始まる郊外化、均質化されたライフ・スタイル、高度情報化社会のなかで、物語の基盤となっていた宗教、 家族の絆、階級、イデオロギー、政治や歴史認識などが消失し、中流の人々は空虚な世界を生きている。

 クープランドが語るこうした現実が、次々に登場してくる新しい世代に多大な影響を及ぼしていることはいうまでもない。17歳≠ニいう言葉に代表される若者たちの現在を切りとるということは、それぞれの時代に彼らがこの空虚な世界をどう生きて在るのかを浮き彫りにすることだといえる。ひと口に空虚な世界といっても、 その時代によって若者たちを切りとる監督のイマジネーションは確実に変化している。ここではそんな変化の流れをたどってみたいと思うが、その前にひとつ確認しておかなければならないことがある。

 物語が失われた世界のなかで、単なる流行や風俗を越えて若者たちの現在を切りとる。それは突き詰めれば、彼らが在ることと対極にある現実的、あるいは象徴的な死を、どう受け入れ、潜り抜けるのかを描くことでもある。たとえば、かつて奇しくも同時期に公開されたラリー・クラークの『KIDS』と北野武の『キッズ・リターン』を比較してみると、 その意味が明確になるのではないかと思う。一見したところ二本の映画で若者の現在を描いているのは前者のように見えるが、筆者はむしろ後者に現在を感じる。

 「KIDS」には、セックスやドラッグとともにAIDSという現代的な要素が盛り込まれているにもかかわらず、このAIDSという現実に対する主人公たちの反応や姿勢が明らかになる手前で話が終わる。この映画から若者たちの現在が見えるとすれば、それは彼らがAIDSをどう受け入れ、潜り抜けるかが明らかになるときだろう。ところがクラークは、 AIDSが彼らの存在を相対化する効力を持つのか持たないのかを映像で語らず、それを曖昧な余韻にすりかえてしまう。

 逆に「キッズ・リターン」は全体として見れば、現在とは程遠いノスタルジックな設定でありながら、ふたりの主人公が限りなく死に近い挫折を潜り抜けるというただ一点だけで現在に切り込み、少年として在ることの残酷な一回性を浮き彫りにする。要するに、時代背景が異なっても、この一点が描きだされることによって、映画は現代に訴えかける力を持ちうるのだ。

 ■■現実が露呈し、閉塞する70年代■■

 戦後から現在に至る時代の流れのなかで、70年代は、多くの人々が物語が失われた空虚な現実に直面し、出口もなく閉塞していく時代と見ることができる。

 

 
 
 


 アン・リーの「アイス・ストーム」に登場する一家は、幸福なアメリカン・ファミリーという枠組みに押し込まれているだけで、実は彼らは最初から他人の集まりであったかのように見える。そんな彼らは、ひとりの人間の死という悲劇に遭遇し、初めて内側から自分たちが家族であることに目覚める。ソフィア・コッポラの「ヴァージン・スーサイズ」に登場する五人姉妹には、 枠組みだけの家族や郊外で繰り返されていく単調な生活がすべて見えてしまい、彼女たちの心は年老いている。パーティやデートは少女として確かに楽しい。しかし彼女たちにとってそれは、同時にもはや遠い過去の出来事でもあり、最終的にはすべてを過去のものとして決着をつけてしまう。

 ジェームズ・マンゴールドの新作『17歳のカルテ』のヒロインも、この70年代の空虚さのなかで不安にとらわれ、自殺未遂の果てに精神病院に送られる。マンゴールドはこれまでの作品で、コンプレックスや心の平安を求める感情とある種の狂気との微妙な結びつきを巧みに表現してきた。「君に逢いたくて」では、母親と食堂を切盛りしてきた内向的なシェフが、 想いを寄せるウェイトレスとの時間を失いたくないために、入院した母親の死を伏せつづける。「コップランド」では、巷で毛嫌いされる警官たちが郊外に築きあげた自分たちだけの楽園を舞台に、その警官たちとマフィアの癒着や不正揉み消し工作に気づいた地元保安官の複雑な葛藤が描きだされる。

 「17歳のカルテ」のヒロインもまた、微妙な立場に身を置くことになる。彼女は、自分が不完全であることを容易に受け入れられる病院のなかで心の平安を得る。郊外の生活のなかで追いつめられ、境界性人格障害と診断された彼女はある意味で正常だが、病を受け入れることは逃避となる。しかし彼女は、ある仲間の死を通して、 病という虚構を生きつづけられないことを思い知り、仲間に追随することをやめ、自力で家に戻っていく。

 ■■虚構がただの虚構でなくなる80年代■■

 この映画でマンゴールドは「オズの魔法使い」を引用しているが、これを同じく「オズの魔法使い」を引用したデイヴィッド・リンチの「ワイルド・アット・ハート」と対比してみると、70年代と80年代の違いが明確になる。80年代とは、レーガン政権が国民のなかにある古きよき時代へのノスタルジーを刺激し、郊外の黄金時代である50年代の価値観が復活した時代である。 その結果、消費はさらに加速し、郊外は明るさを増し、コミュニティに同化できない若者たちは、自分だけの世界、隠れ家となるような影の領域すら奪い去られてしまった。

 そんな80年代の原点である50年代の子供たちは「オズの魔法使い」に熱中した。冷戦と大量消費時代を背景として広がった保守的で画一的な生活のなかで、この映画から浮かび上がるもうひとつの世界は彼らを完全に魅了したからだ。リンチは欲望と暴力に満ちたカップルの逃避行に、この50年代の神話的なイメージを引用することによって、80年代という時代に揺さぶりをかけるのだ。

 同じことは、オリヴァー・ストーンの「ナチュラル・ボーン・キラーズ」やティム・バートンの「シザーハンズ」にも当てはまる。前者では、「アイ・ラブ・ルーシー」のホワイト・トラッシュ版パロディで描かれる家庭崩壊劇から、カップルの逃避行が始まり、後者では、パステル・カラーの郊外住宅地の外れで、ゴシック的な雰囲気が異彩を放つ屋敷が、 若者の孤立を象徴しているからだ。虚構はもはや単なる逃避の場所ではなく、現実と拮抗し、その危うさをあぶりだす強度を備えつつある。しかし、それでもまだ失われた物語の代わりにはなりえない。

 90年代を象徴する『アメリカン・ビューティー』では、この虚構と現実が皮肉な転倒を見せ、若いカップルを覚醒に導く。主人公一家の両隣に、退役軍人の一家とゲイのカップルが暮らしているように、郊外はもはや完全に中道化してしまい、主人公一家は自分たちを相対化する要素を何も持ちえない。あとは閉塞した家庭のなかで妄想にとらわれていくしかない。 その結果、娘は隣人の超オタクな同級生に、父親に対する殺意すらほのめかす。そのまま家族が煮詰まっていけば、娘と同級生はそれを実行に移したかもしれない。しかし娘の選択は両親とは決定的に違う。

 父親が肉体を改造することも、母親が不動産として価値ある家を求めることも、娘が整形をしようとすることも、すべては自分がどう見えるかという意識に基づいている。しかし娘だけは、それが盗撮であれ自分をあるがままに見つめる視線に気づいたとき、自分がどう見えるかではなく、相手を見つめることで変わる。そしてカップルは、表層だけが肥大し、実態のない世界から脱却するのである。

 ■■映画は物語の再生(発見)へと向かう■■

 最後に、こうした現実を踏まえたうえで、監督がしっかりと未来を見つめていると思える二本の映画に注目しておきたい。

 フランソワ・オゾンの新作『クリミナル・ラヴァーズ』では、学校で顔見知りの生徒を殺し、その死体を森に捨てようとしたカップルが、「ヘンゼルとグレーテル」そっくりの設定に引き込まれ、森の男によって小屋に監禁される。彼らが逃げだすためには男を殺すしかないように見えるが、学校での殺人に至る過程と小屋のドラマが並行して綴られていくうちに、カップルの少年は、 殺人を別な次元から見直している。彼は現実に根ざした童話という物語の残酷な洗礼を受けることによって、現実とすり返られた虚構を見極め、初めて心の痛みと罪悪感を覚えるのだ。

 一方、青山真治の新作『EUREKA』は、一見するとバス・ジャックに遭遇した運転手と兄妹が心の傷を癒す旅に出る物語に見えるが、決してそうではない。北野武の映画は、野球のルールがなければ、バットはただの凶器だということを教えてくれるが、事件に遭遇したこの映画の主人公たちは、日常を支えるルールがすべて壊れていることを感知する。そこで人間であることの原点に立ち返り、 自然の重圧や内に宿る殺意と戦いながら、彼らが生きるためのルール=物語を探しだそうとする。

 物語の再生、あるいは発見は、新世紀に向かってますます重要な主題となることだろう。


(upload:2000/12/20)
 


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