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たとえば映画の冒頭、盗みに失敗した3人が逃走している場面には、苛立つロウが車のミラーに掛かった十字架をバックシートのマイロに投げつけるといったやりとりがある。その後のドラマでも、ロウは執拗なまでにマイロに対して苛立ちや憎しみをあらわにする。またドヴァは、人質となった男女に向かって、彼が昔カトリックの学校に通い、教会のミサの侍者をつとめていた話をする。そんな話をしながら、犯罪を重ね転落した人生を自嘲するのだ。
映画ではそんな3人の男たちの過去は、ほとんど明らかにされることはないが、彼らのやりとりには3人が共通する宗教的な背景を持っていることが暗示されている。彼らは、その背景に対する怯えや反発ゆえに異なる方向へと駆り立てられるのだ。マイロは信仰に厚く、人質を殺すことに耐え難い罪悪感を覚える。一方ロウがそのマイロを目の敵のように扱うのは、共通する背景に対して激しい反発をおぼえるからなのだ。
この映画は、こうした宗教的な背景に関心をはらってみると、冒頭から、現実的なドラマであると同時にきわめて象徴的なドラマとして見ることができる。3人の男たちは、不運な偶然というよりは、ロウがお守りであるかのような十字架を蔑ろにするという行為によって世界から見放され、警官がマークしていた容疑者でもないのに地下の穴蔵に閉じ込められる。そして、その穴蔵のなかで彼らの内面に蠢くものが次第にむき出しになっていくのだ。
ただし、そんな象徴的なドラマが狙う効果が明確になるのは、意外な結末を経た後のことだ。この結末を経てはじめて、3人の性格や行動が、水面下でお互いにいかなる心理的な影響を及ぼしあっていたかが見えてくる。彼らは、人質を殺すかどうかで対立していたが、リーダー格のドヴァは、そんな対立とは異なるレベルで、ふたりの仲間から心理的な影響を受けていた。
マイロは深い罪悪感ゆえに、自己を徹底的に責め苛み、ドヴァの感情に圧力をかける。一方ロウは、仲間たちが生き残っていくために犠牲にされるという生命力の弱い白子のワニの話を持ちだし、ドヴァに邪悪な暗示を吹き込む。ドヴァは、ふたりから心理的な影響を受け、犠牲を出しても生き残りたいが、絶対に自分の手を汚したくないと思う。そして、そんな彼の気持ちが、切迫した状況のなかで意外な結末を導きだすのである。
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