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『バッドサンタ』のマーカスとウィリーのコンビが標的とするのは、郊外のショッピングモールであり、このドラマにも、そのポスターの一件に通じるエピソードが盛り込まれている。ショッピングモールのマネージャーは、婦人服コーナーの更衣室で、サンタが淫らな行為に耽っているのを目撃し、このコンビに、新しいサンタを探すつもりだと告げる。ところが、マーカスから小人に対する差別だと詰め寄られると、途端に弱腰になる。へたな発言や態度によって、マーカスから訴えられれば、自分の首が危なくなりかねないからだ。
あるいはここで、トッド・ソロンズ監督の『ストーリーテリング』を思い出してもよいだろう。この映画に登場する女子大生の頭のなかでは、郊外に暮らす平凡な中流の白人というコンプレックスが、人と違うことへの強迫観念にまでエスカレートしている。彼女の恋人は、脳性小児麻痺の障害がある同級生であり、彼とうまくいかなくなると今度は、黒人の教授に吸い寄せられていく。その教授は実はSMマニアで、それを知った彼女は戸惑うものの、政治的正しさ(Politically Correctness)に勝手に呪縛され、「黒人を差別するな」とひたすら自分に言い聞かせ、彼の言いなりになる。一方、その教授の暴走する欲望もまた政治的な正しさの産物であり、彼らはお互いの表層を通してSMを繰り広げるのだ。
『バッドサンタ』のマネージャーも、政治的な正しさに呪縛され、ウィリーの淫らな行為を見なかったことにせざるをえなくなるわけだ。そしてこの映画では、このエピソードが意味するものが、サンタのイメージとも結びついている。ショッピングモールの客寄せサンタは、郊外のライフスタイルや価値観と同じように、画一的で表層的、事なかれ主義的であるからだ。ウィリーが、そんなサンタのイメージをぶち壊していくことは、キリスト教や商業化されたクリスマスだけでなく、空虚な日常そのものにも揺さぶりをかけることになるのだ。
と同時に、サンタのイメージの破壊は、別な意味も持つ。ユダヤ系の家庭に育ち、クリスマスやサンタがタブーだったために、サンタ・フェチとなったスーと、ウィリーに執拗につきまとい、サンタのことばかり尋ねるサンタ・ストーカーのキッド。彼らは、サンタに引かれてウィリーに近づくが、やがてサンタという媒介は不要となる。というよりも、もっと正確にいえば、それぞれに疎外感を持つ彼らは、ウィリーが、最初からサンタなんかクソ食らえと思っているだらしないサンタであるからこそ、彼に引かれるのだ。
但し、ウィリーは、スーほどすんなりとキッドを受け入れるわけではない。子供嫌いのウィリーはむしろ、キッドをうまいこと利用したつもりになっている。ところが、妙に打たれ強い少年のせいで、自分を見つめなおさなければならなくなっていく。豪邸に居座り、酔っぱらってセックスして、キッドが大切にしているクリスマス・ボードを滅茶苦茶にしてしまっては、自分の父親と何も変わらないことになってしまうからだ。
そんなウィリーとキッドのやりとりで、妙に印象に残るものがふたつある。ひとつはパンだ。キッドは挨拶のように「サンド食べる?」という台詞を繰り返し、ウィリーにサンドイッチを作り、キッドが手を怪我したときには、ウィリーがかわりに特製のパンを作る。そしてもうひとつは、ふたりのプレゼントだ。結果的に彼らはどちらも、相手に血染めのプレゼントを渡すことになる。これらは、キリストの肉と血の象徴としてのパンとワインを、ユーモラスにアレンジしたもののようにも見える。まあ、それが深読みのしすぎだとしても、パンと血染めのプレゼントのエピソードが、彼らを深く結びつける大切な儀式になっていることは間違いないだろう。 |