ベティ・サイズモア
Nurse Betty


2000年/アメリカ/カラー/110分/シネスコ/ドルビーSR・SRD・DTS・SDDS
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(初出:「STUDIO VOICE」2001年6月号、若干の加筆)

 

 

現実と虚構を仕切り通してしまうレニーの存在感

 

 ハリウッドとインディーズの境界が曖昧になり、インディーズや未知数の監督がいきなり大作を撮る機会にも恵まれるアメリカ映画界では、『ファイト・クラブ』や『マルコヴィッチの穴』のように、作家の感性を剥き出しにした作品がメジャーでまかり通っている。

 『ベティ・サイズモア』も、インディーズで頭角を現したニール・ラビュートの監督作だが、そんな感性剥き出しの作品を期待すると、肩透かしを喰らう。但しそれは落胆という意味ではない。この作品には、映画界を刺激する先鋭的な作品とは一線を画すスタンスがあり、そこに目から鱗が落ちるような感動をおぼえる。

 カンザス州フェアオークスで、思いやりのかけらもない身勝手な夫と暮らし、カフェのウェイトレスをしているベティ。彼女は、病院を舞台にした昼メロ"愛のすべて"の主人公である医師デイヴィッドに憧れ、看護婦になることを夢想している。誕生日に、録画した昼メロをひとり寂しく見ていた彼女は、ドラッグを横取りした夫が、二人組の殺し屋の手にかかるのを偶然覗き見て、激しいショックを受ける。そして、昼メロの世界に完全に逃避し、デイヴィッドのかつての婚約者となり、彼と再会するためにビュイックで一路ハリウッドを目指す。トランクにドラッグが隠されていることも知らずに…。

 このストーリーには、特に真新しい要素は見当たらない。ドラマの台詞に出てくるように、ベティはドロシーであり、大人のための現代版『オズの魔法使』ともいえる。彼女はロスに行き、奇妙な成り行きでとある病院の看護婦となり、実践的な女優志望者と誤解されることで、デイヴィッドとの再会を果たし親しくなる。しかし、やがて現実を直視しなければならないときが訪れる。ストーリーに極端な逸脱はない。王道を行っている。

 にもかかわらず、この映画は現代という時代を確実にとらえている。『トゥルーマン・ショー』や『マルコヴィッチの穴』と視点を共有している。しかも、目を見張るような特別な仕掛けなしにである。まず脚本が優れていることは間違いない。王道を行くようなその脚本に、あえてラビュートを起用したことも、もちろん大きい。そしてもうひとつ、どうしても見逃せないのが、ベティに扮するレニー・ゼルウィガーの存在だ。


◆スタッフ◆

監督 ニール・ラビュート
Neil Labute
脚本 ジョン・C・リチャーズ/ ジェイムズ・フランバーグ
John C.Richards/ James Flamberg
撮影 ジャン・イヴ・エスコフィエ
Jean-Yves Escoffier
編集 ジョエル・プロッチ/ スティーヴン・ワイズバーグ
Joel Plotch/ Steven Weisberg
音楽 ロルフ・ケント
Rolfe Kent

◆キャスト◆

ベティ・サイズモア
レニー・ゼルウィガー
Renee Zellweger
チャーリー モーガン・フリーマン
Morgan Freeman
ウェズリー クリス・ロック
Chris Rock
デイヴィッド=ジョージ グレッグ・キニア
Greg Kinnear
デル アーロン・エッカート
Aaron Eckhart
 
(配給:UIP)
 


 筆者はかなり熱烈な彼女のファンであり、また女優として特別な関心を持っている。彼女が登場してきたとき、いずれダイアン・ウィーストのような存在感を放つ女優になるに違いないと思ったのだ。ウィーストの存在感とは、具体的にいえば『シザーハンズ』のペグ役である。彼女は、暗い屋敷からエドワードを連れだす役割を果たすが、それはこの映画で最も難しく、かつ重要な部分になっている。

 この屋敷は、暗黙のうちに管理され、隠れ場所となるような死角が見当たらない郊外の生活のなかで、孤立する少年が内面に構築した影の世界を象徴している。だから表層に支配された明るい郊外とは決して相容れない。その境界を自然に越えることを可能にしているのは、エイボン・レディの恐るべき通俗さとまったく無防備な善良さを、見事に両立させてしまうウィーストの存在感以外のなにものでもない。そして、その結果としてこの映画では、レーガン時代以後の郊外の閉塞感が浮き彫りになるのだ。

 『ベティ・サイズモア』でゼルウィガーは、昼メロに熱中する通俗さと無防備な善良さを完璧に両立させ、驀進していく。そんな存在感と脚本、演出が絡み合うとき、この映画からは現代的な視点が浮かび上がってくる。

 ベティが出会う人々は、最初は戸惑うものの、半ば彼女に同情し、半ば声援を送り、そして無防備な善良さゆえに、どこかで彼女をなめている。それはわれわれ観客にもいえる。ベティの軌跡を追うわれわれは、気づかぬうちに『トゥルーマン・ショー』における"トゥルーマン・ショー"の視聴者の立場に立たされている。そのトゥルーマンは虚構に翻弄されるが、ベティの虚構はまったく揺らぐこともなく、逆に現実を彼女の世界にずるずると引き込む。彼女は、昼メロで学んだ知識で、危険な状況にあるけが人の命を救い、愛しのデイヴィッドを罠に陥れた女優に平手打ちを喰わせ、昼メロの筋書きすら変えていく。

 それでも彼女の周囲の人間やわれわれは、彼女が夢を叶え、成功を遂げようとしているかのような錯覚に浸っている。しかし、彼女が現実に目覚めるとき、本当にぐらぐらと揺らぐのは、彼女ではなく表層に囚われているこちら側の方なのだ。『トゥルーマン・ショー』で真実に気づいた主人公は、ただそこを出て行くだけであり、『マルコヴィッチの穴』の登場人物たちは最後まで表層にすがり、人間はただの入れ物と化していく。だがベティは、それが虚構であれ現実であれ、最後まで仕切り通してしまう。それが実際にはあり得ないことであるとしても、この映画には、そう思わせてしまうだけの圧倒的な強度があるのだ。


(upload:2001/09/16)
 
 
《関連リンク》
『マルコヴィッチの穴』 レビュー ■
『トゥルーマン・ショー』 レビュー ■
『シザーハンズ』レビュー ■

 
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