ひかりのまち

1999年/イギリス/カラー/109分/スコープサイズ/ドルビーSRD
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(初出:「キネマ旬報」2000年9月上旬号)
自己と他者への厳しい問いかけ

 マイケル・ウィンターボトムは非常に多作な監督であり、かつその作品はバラエティに富んでいる。しかし、題材や表現スタイルがどのように変わろうとも、彼が見つめつづけるのは孤立した人間の姿である。彼の映画に孤児やそれに類する人物が頻繁に登場するのも決して偶然ではない。

 彼の劇映画デビュー作『バタフライ・キス』には、ユーニスという孤独なヒロインが登場する。彼女はハイウェイ沿いを彷徨い、神の存在を確かめようとするように殺人を繰り返す。以前筆者がインタビューしたとき、監督はこのヒロインについてこう語っていた。

「彼女のように孤立した人間は、イギリス社会に存在しながら、これまでは見えなかった。しかしサッチャー政権によって社会が大きな変貌を遂げた。サッチャーはこの世には社会などなく個人の集合でしかないという迷言を吐いた。その結果、彼女のように社会に紛れていた個人があぶりだされてきた。 この映画は殺人鬼やレズビアン、ロード・ムーヴィーなど様々な観点から語られたが、(イギリス的な)社会派リアリズムとだけは言われなかった。そのことにとても満足している」。

 この発言は彼の魅力をよく物語っている。文学作品からボスニア紛争まで、幅広い題材を多様なスタイルで描く彼の映画は、確かに社会派リアリズムには見えないが、それでも社会を見事にとらえている。彼の関心は常に、ある状況のなかで孤立した人間が何を求め、どう行動するかにあり、 それを掘り下げれば自ずと社会的な現実も浮き彫りになるという確信があるのだ。しかも彼は、その確信を強要することなく、解釈を観客に委ねる。

 言葉を変えれば、彼は、観客が同じ感情を共有するような明確な物語の流れを排除する。登場人物を物語の束縛から解放し、解釈を観客に委ね、映画と個々の観客のあいだに親密な関係を築きあげようとするのだ。

 そして、だからこそ自らの意思で『サイダーハウス・ルール』の監督を降りたということもできる。彼は原作者であるアーヴィング自身が書いた脚本を読んで、「原作を越えられない」と判断したが、その気持ちはよくわかる気がする。アーヴィングの魅力は、 現代という時代に古典的な物語の力を甦らせるところにあり、脚本でも人物は物語のうねりのなかに存在している。しかしウィンターボトムにすれば、その物語を排除しない限り、原作を越えることはできないのだ。


◆スタッフ◆

監督
マイケル・ウィンターボトム
Michael Winterbottom
脚本 ローレンス・コリアト
Laurence Coriat
製作 アンドリュー・イートン/ミシェル・カマーダ
Andrew Eaton/Michele Camarda
撮影 ショーン・ボビット
Sean Bobbitt
編集 トレヴァー・ウェイト
Trevor Waite
音楽 マイケル・ナイマン
Michael Nyman

◆キャスト◆

ナディア
ジナ・マッキー
Gina McKee
モリー モリー・パーカー
Molly Parker
デビー シャーリー・ヘンダーソン
Shirley Henderson
ダン イアン・ハート
Ian Hart
ダレン エンゾ・チレンティ
Enzo Cilenti
メラニー サラ=ジェーン・ポッツ
Sarah-Jane Potts

(配給:アスミック・エース)


 現代のロンドンを舞台にした新作『ひかりのまち』には、そんなウィンターボトムの映画的感性が遺憾なく発揮されている。『バタフライ・キス』にはサッチャリズムによる社会の変化が反映されていたが、『ひかりのまち』は、その後の社会と個人の関係を描きだす作品といえる。 この映画でロンドンを華やかに彩る光は、豊かになった社会を象徴している。しかし豊かさのなかで、人々は孤立しつつある。生き方の選択肢は広がったものの、それぞれが理想を追ううちに自分だけの世界にはまり込んでいる。切り捨てられた弱者の次に見えてくるのは、一見満ち足りた家族のなかで孤立する個人の姿なのだ。

 実家から独立してそれぞれの生活を営む三姉妹。ドラマの軸となるナディアは、カフェでウェイトレスとして働き、伝言ダイアルで恋人を探している。伝言ダイアルは出会いの可能性を広げるかに見えるが、それが仕事を機械的な労働に変えてしまい、彼女はカフェで自分だけを見つめる眼差しにすら気づかない。 離婚した姉のデビーは、息子のジャックと暮らし、男との付き合いを遊びと割り切っている。出産を間近にひかえた妹のモリーは、堅実な道を歩んでいるかに見えるが、夫がもっとやりがいのある仕事を求めて退職してしまったことを知らない。

 さらに、自分から生き方を変えることができないこの姉妹の母親は、自分の人生に対する苛立ちを、夫や隣人への不満にすりかえて生きている。父親は、家出したまま行方がわからない息子のことを気づかい、寂しさをかみ締めている。

 ウィンターボトムは手持ちカメラでこの家族と彼らを取り巻く人々を追いつづける。それぞれに異なる想いを胸に秘め、それを誰とも分かち合えない彼らは、時に光に飲み込まれそうになりながら、ロンドンの街を彷徨う。生き方の選択肢が限られていた時代には、人々の日常はコミュニティに支えられ、 彼らは生活の場を同じものとして共有していた。しかしそんな基盤が失われたいま、同じ街に生きながら、彼らはそこに異なる世界を見ている。その異なる世界が交錯していくとき、ロンドンの街は映画の原題である”ワンダーランド”と化していく。

 それゆえにこの映画では、サッカー観戦や花火大会の場面が際立ってみえる。それは人々が空間を共有し、同じものを見つめ、一体となるつかの間の時間であるからだ。ウィンターボトムは、そんな場面で試合や花火そのものではなく、それを見つめる人々にカメラを向け、 彼らの表情の輝きをとらえる。しかしその輝きはもちろん、日常における人々の孤立感を逆説的に物語ってもいる。

 家族のある週末を描くこの映画では、彼らが右往左往する出来事が起こり、そして最後にはいつもと変わらない一週間がまた始まるように見える。しかし彼らの心には確かな変化がある。彼らが孤立するのは家族という前提があるためだが、この週末のなかで彼らはそれぞれに自分がひとりであることを知る。

 この映画には、ナディアが伝言ダイアルで知り合った男に、子供の頃よく孤児になった自分を夢想していたと語る場面があるが、彼らはまさにひとたび孤児になるのだ。そして、孤立しているのではなく、ひとりであることを受け入れたところから、あらためて自分の身近にいる人間と言葉を交わし、手を差しのべ、絆を作り上げていこうとするのである。

(upload:2000/12/20)

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