ビッグ・リバー
Big River


2005年/日本=アメリカ/カラー/105分/シネスコ/ドルビーデジタルSRD
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(初出:「香港電影通信」2006年)

他者の視点から切り開かれるもうひとつのアメリカ

 ミヒャエル・ハネケ監督の『隠された記憶』(05)では、差出人不明のビデオテープによって、フランス人の人気キャスターの脳裏に、少年時代にアルジェリア人の少年と共有した時間の記憶が甦り、彼の日常や現実が揺らいでいく。トルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督の『愛より強く』(04)では、ハンブルクとイスタンブールを舞台に、社会や文化の歪みに翻弄され、自己を見失ったトルコ系ドイツ人の男女が、生まれ変わるための儀式ともいうべき愛に目覚めていく。スパイク・リー監督の『インサイド・マン』(06)では、銀行襲撃犯が仕掛ける完全犯罪を装置として、アラブ人に間違われるシーク教徒や銀行襲撃以上に暴力的なテレビゲームに熱中する黒人少年、銀行の取締役会長の秘密を守るために政治力を行使する仲介人など、人種や階層が異なる多様な人物たちの間に生じる軋轢が巧みに描き出されていく。

 最近公開されたこれらの作品は、それぞれにまったくタイプの異なる映画だが、注目すべき共通点がある。自己と他者、われわれと彼らの関係というものが、政治的な力によって安易に図式化されていく時代のなかで、これらの作品は、その図式に取り込まれて権力を批判するのではなく、独自の視点で、他者性を見つめ直し、掘り下げているのだ。

 そして、アメリカに暮らし、そこで映画を作りつづける舩橋淳監督の新作『ビッグ・リバー』(05)もまた、同様の姿勢を持った作品である。このロード・ムーヴィーでは、三人の登場人物が、アリゾナの砂漠で偶然に出会い、行動をともにしていく。その三人とは、日本人のバックパッカーの哲平、アメリカから戻ってこない妻を探しにきたパキスタン人のアリ、そして祖父とトレーラーハウスで暮らすアメリカ人のサラだ。

 筆者が舩橋監督にインタビューしたとき、彼は、この他者性について以下のように語っていた。

「『ビッグ・リバー』の出発点は、実はそこなんです。内部のアメリカ人の視点とは違ったところから、他者としてアメリカを見つめる映画があるべきではないかと。アメリカは立前としては自由と民主主義の国ですが、特に9・11以降、いろいろな歪みが現実に出てきている。自分の味方か敵かという単純な二元論に向かう動きが強いですよね。それに逆らい得るのが映画だと思うのですが、ブッシュに対するアンチとして反体制映画を撮るのでは、結果としてその二元論的な風景に回収されてしまう。ゴダールが、マイケル・ムーアの『華氏911』を観て、ブッシュを批判しているようで、実は彼に利することをやっているのに気づいていないと語っていたんですが、まさにその通りで、単純化に加担するようなかたちで映画を作ってはならないという思いが、『ビッグ・リバー』の背景にあります」

 では、舩橋監督は、どのようにその二元論的な風景を回避し、独自の世界を切り開いているのか。彼のスタイルや発想には、ジム・ジャームッシュの、特に初期の作品に通じる魅力がある。ジャームッシュは、シチュエーションの積み重ねのなかにズレを生み出し、登場人物を取り巻く世界を異空間に変えていく。

 たとえば、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の第一部で、ブダペストから憧れの“新世界”にやって来た娘が、そこで発見するのはTVディナーであり、第二部で、主人公たちがエリー湖の見物に出かけると雪で何も見えず、第三部では、バカンス気分でフロリダを目指すものの、そこは常夏の楽園からは程遠い。『ダウン・バイ・ロー』は、ニューオリンズから始まるが、場所や時代を特定する情報や記号は、主人公たちが放り込まれた刑務所のなかで拭い去られ、脱獄した彼らは、場所も時代も定かではない異空間に踏み出している。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   舩橋淳
Atsushi Funahashi
脚本/撮影 エリック・バン・デン・ブルール
Eric Van Den Brulle
編集 スティーブ・ハミルトン
Steve Hamilton
音楽 ヤニック・ドゥズィンスキー
Janek Duszynski
 
◆キャスト◆
 
哲平   オダギリジョー
Joe Odagiri
アリ カヴィ・ラズ
Kavi Raz
サラ クロエ・スナイダー
Chloe Snyder
-
(配給:東京テアトル/オフィス北野)
 
 


 舩橋監督もこの『ビッグ・リバー』で、三人の立場や思いとアリゾナの風景が絡み合うシチュエーションのなかにズレを生み出し、異空間を切り開いていく。この三人の人物は、その目的や願望などが、異なる方向性を示唆している。映画の冒頭で、哲平は、メキシコからアメリカへと国境を越え、アリは、フェニックス空港に降り立つ。彼らは、それぞれにある境界を越え、砂漠で遭遇するが、彼らが目指す方向はまったく違う。

 アリにとって、アリゾナは目的地だが、そこからニューヨークを経て絶対にアイスランドに行きたいと語る哲平にとっては、単なる通過点に過ぎない。一方、アリゾナに祖父と暮らすサラは、どこかに旅立ちたい、つまり、境界を越えたいと思っているが、ひとりでは踏ん切りがつかない。彼女にとって哲平は理想的なパートナーになりそうだが、彼は道連れができることに戸惑いを隠さない。

 そんな三人が成り行きで行動をともにすれば、お互いに相手を振り回すことになり、そこから様々なズレが生まれ、異空間へと繋がっていく。その異空間とは、西部劇の世界でもある。この映画には、モニュメント・バレーの風景、ゴーストタウンのアミューズメント・パークにおけるアトラクションや西部劇の上映、馬をとらえた幻想的な映像など、様々なかたちで西部劇が参照されている。

 この原稿の冒頭で、『インサイド・マン』では、シーク教徒がアラブ人と間違われると書いたが、『ビッグ・リバー』から浮かび上がってくる西部劇のイメージは、実はそんな悲劇と無縁ではない。舩橋監督は、西部劇を参照していることについて、以下のように語っている。

「9・11の直後、アリゾナのメサという町のガソリンスタンドで、シーク教徒が、「アメリカを擁護する」と叫ぶ男にショットガンで射殺される事件があったんです。そこでアリゾナという土地について調べてみると、フォードやホークスが西部劇を撮っていたところなんですね。ならばその男は、インディアンを撃つようにシーク教徒を撃ったのか、と想像したんです。それはもちろん現実離れした野蛮な妄想なんですが、西部の荒野と現代アメリカの荒廃を繋げたら、映画になるのではないかと思いました」

 この映画の冒頭で、空港に降り立ったアリは、入国審査所で所持品を細かくチェックされる。そこには、二元論的な風景というアメリカの現実がある。三人の主人公は、そんな現実から異空間へと踏み出していくが、そこは必ずしも解放された自由な空間ではない。彼らの関係は、西部や西部劇と様々なかたちで対置されていく。もし彼らの間に対立が起これば、アミューズメント・パークで上映されている西部劇のように、インディアンと白人という図式に引き込まれかねない。彼らが訪れたウエスタン・バーでは、カウボーイ・ファッションの男たちが、アリを特別な目で見る。三人は、お互いに理解できないこともあるが、そういう図式を回避しつつ、信頼関係を培っていく。

 しかし、その異空間の外には、間違いなくアメリカの現実があり、やがて彼らは、現実と対峙しなければならなくなる。この映画で、そんな現実を象徴するのが、三人の乗った車を止める警官である。その警官は、尋問を始め、彼らがパキスタン人と日本人とアメリカ人であることがわかると、テロ防止活動の一環と称して荷物検査を始める。つまり、彼らを二元論的な風景に無理やり押し込もうとするのだ。それは、人種も文化も違う彼らの絆が試されることでもある。そして、映画のラストに、それぞれに異空間で見出したものを確認した彼らの変化が現れるのだ。

 この『ビッグ・リバー』で、人種も文化も違う人間同士の絆が試されるのは、三人の主人公だけではない。スタッフの顔ぶれも無視するわけにはいかない。撮影に加えて、舩橋監督と共同で脚本を手がけているのは、世界を旅する写真家でもあるエリック・バン・デン・ブルールであり、音楽は、ポーランド出身のヤニック・ドゥズィンスキーである。『ビッグ・リバー』を作るということは、人種や文化の異なるスタッフとキャストが空間を共有し、ひとつの世界を構築していくことを意味する。そして、完成された作品とそこに至るプロセスからは、二元論的な風景に回収されることのない、もうひとつのアメリカが見えてくるのだ。


(upload:2007/12/15)
 
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