ボブ・クレイン 快楽を知ったTVスター
Auto Focus Auto Focus (2002) on IMDb


2002年/アメリカ/カラー/105分/ヴィスタ/ドルビーデジタル・SDDS
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(初出:『ボブ・クレイン 快楽を知ったTVスター』プレス)

 

 

表層の世界を生きた男、ボブ・クレイン

 

 かつてポール・シュレイダーが脚本を手がけ、ブライアン・デ・パルマが監督した『愛のメモリー』の原題"Obsession"は、シュレイダーの世界全般に当てはまる言葉でもある。彼が監督や脚本を手がけた作品では、ほとんどの主人公が、何らかの妄執にとり憑かれていく。

 『愛のメモリー』のマイケルは、誘拐事件に巻き込まれて死亡した妻子に対する罪悪感を背負い、妻を取り戻す妄想に引き込まれていく。マーティン・スコセッシと組んだ『タクシー・ドライバー』では、トラヴィスが少女の娼婦を救うことにとり憑かれ、『レイジング・ブル』では、ジェイクが嫉妬や弟との軋轢から破滅的な衝動に駆られていく。

 シュレイダー自身が監督した『ハードコアの夜』では、父親が行方不明になった娘を執念で探しつづけ、『ライト・スリーパー』では、売人のジョンがかつての恋人を死なせた罪悪感に苛まれ、『白い刻印』では、警官のウェイドが、別れた妻から娘を取り戻そうとするうちに、危険な妄想に囚われていく。

 こうしたオブセッションは、シュレイダーの生い立ちと無縁ではない。彼は、ミシガン州の厳格なカルヴァン派のコミュニティで育ち、その体験は映画にも反映されている。『ハードコアの夜』や『愛と栄光への日々』では、頑なに信仰を守る父親や母親とその抑圧的な檻から逃れようとする娘の確執が浮き彫りにされている。

 シュレイダーはそんな体験から宗教の枠を越えて世界を広げ、確執を引きずりながら救いを求めようとすることが、オブセッションへと繋がっていくような物語を描きだす。たとえば、『白い刻印』では、父親の暴力の記憶がウェイドのトラウマとなり、確執を引きずりながら父親とは違う人生を歩もうともがくことが、彼自身の首を絞めていく。

 実話をもとにした『ボブ・クレイン 快楽を知ったTVスター』もまた、オブセッションの物語だ。主人公のクレインは、女、ヌード、巨乳、セックスにとり憑かれていく。彼は、1928年コネティカット州の生まれで、ロバート・グレイスミスの原作によれば、敬虔なカトリックの家庭に育った。地元のラジオ局で人気者となった彼は、56年に妻子とともにカリフォルニアにやって来る。

 アメリカでは第二次大戦後から50年代にかけて、激しい勢いで郊外化が進んだが、彼の一家は、そんな時代にロス郊外のサンフェルナンド・バレーで新しい生活を始める。かつてハリウッドのセレブたちの社交場だったこの地域は、ビング・クロスビーの44年のヒット曲<サンフェルナンド・バレー>で全国にその名が知られたこともあり、戦後いち早く郊外化が進み、サバービア(郊外住宅地)という新しいアメリカの夢の象徴となった。

 しかし、その幸福なアメリカン・ファミリーのイメージを支えていたのは、物がすべての大量消費社会や所有と消費が新しい夢になることで、共産主義が広がるのを防ごうとする政治的事情でしかなかった。つまり、幸福のイメージは外的な力によって作り上げられたものであり、その本質は、画一化された空虚で退屈な生活でしかなかった。


◆スタッフ◆

監督   ポール・シュレイダー
Paul Schrader
脚本 マイケル・ガーボシ
Michael Gerbosi
製作総指揮 リック・ヘス、トレヴァー・メイシー、ジェイムズ・シェイマス
Rick Hess, Trevor Macy, James Schamus
撮影監督 フレッド・マーフィ
Fred Murphy
編集 クリスティーナ・ボーデン
Kristina Boden
音楽 アンジェロ・バダラメンティ
Angelo Badalamenti

◆キャスト◆

ボブ・クレイン   グレッグ・キニア
Greg Kinnear
ジョン・カーペンター ウィレム・デフォー
Willem Dafoe
アン・クレイン リタ・ウィルソン
Rita Wilson
パトリシア・クレイン マリア・ベロ
Maria Bello

(配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)
 


 実際、サンフェルナンド・バレーは、80年代半ばには全米で最も離婚率が高く、不満を抱えた若者たちやスラムから流れ込むギャングがトラブルを引き起こす場所となっていた。また、ハリウッドに近いこの地域周辺では、ポルノ産業が発展し、全米に出回るポルノの大半が作られているともいわれた。

 『ボブ・クレイン』の物語が始まるのは64年。クレインは、ラジオからテレビへと進出し、さらなる成功を手にするが、夫婦の間には確実に亀裂が広がっている。これまで熱心に教会に通い、酒も煙草もやらず、浮気とも無縁だった堅物は、カーペンターと出会ったことがきっかけで女漁りを始める。60年代から70年代にかけて進展していく性革命と歩調を合わせるようにセックスに深くのめり込み、ポラロイドやビデオで快楽の王国を作り上げていくのだ。

 時代背景はずれるが、この映画は、サンフェルナンド・バレーを舞台にしたポール・トーマス・アンダーソンの『ブギーナイツ』と比較しても面白い。『ブギーナイツ』の物語は、クレインがアリゾナで死体で発見される70年代末から始まり、巨大なイチモツでポルノ界の頂点に立つ若者の野心や葛藤が描かれる。この映画の素晴らしさは、過去を背負う孤独な登場人物たちが、ポルノ業界のなかに擬似家族を作り上げるドラマを通して、夢のハリウッドとポルノ、夢のサバービアと崩壊した家庭というアメリカの幻想と現実が鮮やかに対置されているところにある。

 ボブ・クレインは、この『ブギーナイツ』の主人公の先を行こうとしていたともいえる。ジャック・レモンに憧れ、映画を目標にしていた彼の成功は、テレビドラマで終わり、キャリアは下降線をたどっていく。そこで彼は、手術でペニスを大きくし、ポルノ映画のスターになろうとする。まさにこの映画でも、ハリウッドとポルノ、サバービアと崩壊した家庭が巧みに対置されているのだ。

 しかし、それだけではない。この映画と『ブギーナイツ』には決定的な違いがあり、それがこの映画を非常に興味深いものにしている。『ブギーナイツ』の登場人物たちは、ショービジネスの派手な世界の裏で、自分の仲間が過去を背負い、孤独に苛まれていることを理解し、擬似家族を作り上げていく。つまり、彼らには表層と内面がある。だが、クレインには表層しかない。いや、最初は確かに内面もあるが、それをどんどん失い、表層だけの存在になってしまうのだ。

 クレインは、ラジオからテレビに進出して成功することによって、自分が見られ、その顔がセレブとして認知され、サインを書き、女が寄ってくることが喜び、そして存在証明となる。女漁りも、ポラロイドやビデオに記録されることによって、ただセックスするだけではなく、見たり、見せたりすることが重要になる。彼は、自分と女のセックスを見ながら、女の身体にしか関心が行かない。彼には女の内面など存在しない。なぜなら自分の内面も存在しないからだ。そんな彼の表層的な世界では、テレビやディナー・シアターの仕事と私生活の境界も崩壊していく。

 では、なぜ彼は、自分の名声に傷がつく可能性のある私生活を隠そうとしなくなるのか。そのヒントは、彼と神父がダイナーで交わす会話にある。彼は神父に、テレビの収録の後でストリップ・クラブに通っていることを告白する。すると神父は、そういう話は告解室で聞こうかと尋ねるが、彼は、懺悔ではなくただの話だと応える。これは、彼の未来を暗示する一種のマニフェストになっている。告解室で密かに告白しなければならないことは罪だが、大っぴらに話したり、見せたりできることは罪ではない。それゆえ彼は、最後まで自分がいい人間だと主張しつづけるが、罪がないかわりに内面を失ってしまうのだ。

 しかし、そんな彼にもひとつだけ性の欲望に対する罪の意識が残っている。同性愛である。それは、決して純粋な信仰に基づく意識ではなく、形骸化したドグマでしかないが、それでもどうにもならない。ドグマに縛られているだけだから当然、他者の同性愛的な感情など理解できるはずもなく、やがてそれが命取りとなる。そんな皮肉な運命が、表層に囚われたクレインの空虚な性と生をさらに際立たせているのだ。


(upload:2004/03/06)
 
 
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