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イェーキンの『フレッシュ』が新鮮なのは、出口のない黒人社会を題材にし、フィクションの要素を自在に膨らませ、人間が掘り下げられたリアルな世界を構築しているからだ。黒人社会という題材は、野心的な脚本家の想像力を刺激し、創作に駆り立てるようなエピソードに満ちているのだ。
実際、筆者はこの『フレッシュ』を観ながら、映画とは直接関係のない現実のエピソードをいろいろ思い出した。たとえば、この映画の主人公は12歳のドラッグ・ディーラーだが、筆者は何年か前に「ヴィレッジ・ヴォイス」誌で読んだプエルトリカンの若者の物語を思い出した。その若者は、19歳にしてヘロイン密売の元締めになり、50人の人間を使い、週に4万5千ドル稼ぎ、優雅な生活を送っているというのだ。あるいは、この映画ではチェスがドラマのポイントになっているが、筆者は昨年(1994年)読んだ黒人の新聞記者ネーサン・マッコールの『Makes
Me Wanna Holler』という自伝のことを思い出した。この著者は、ブルーカラーの家庭に育ち、ギャングの一員となり、武装強盗の罪で刑務所に入れられる。しかし、そこで勉強を始め、釈放後にジャーナリズムの世界に入り、ついには「ワシントン・ポスト」紙の記者になる。そんな物語は、黒人社会に関する複雑で苛酷、かつ興味深いエピソードに満ちているが、そのひとつが、刑務所に送られた主人公が、老いたジャンキーの囚人からチェスを仕込まれ、社会のなかでの駆け引きを学んでいく場面なのである。
『フレッシュ』は、まさにそうした現実の断片をヒントに、鋭い洞察と想像力によって独自のリアルな世界を構築する映画なのだ。イェーキンは、ドラマに余計な感情を盛り込むことを避け、渇いたタッチで主人公の世界を描きだしていく。12歳のディーラー、フレッシュは、映画の最後の最後まで、まったくと言っていいほど感情を表に出すことがない。彼は通学の途上で、まるで家族から用事を言いつかったかのようなさり気なさでヘロインを受け取り、運び屋をつとめる。クスリ欲しさに泣きついてくる女を、大人顔負けの態度で冷たく突き放す。ヤク中の姉が、密売組織のボスにかわいがられているところに出くわしても、ひたすら平静を装う。
そんな彼の表情は、チェスという要素と結びつくことで、いっそう大きな意味を持つことになる。彼の父親は、人生が破綻し、チェスだけを生き甲斐にしている。そのため、チェスだけが父親と息子を結ぶ絆になっている。そして、フレッシュが麻薬密売という大人の世界に順応していく姿もまた、チェスの駆け引きとダブっていくことになるのだ。
このチェスという要素は、渇いた視点で描かれるドラマのなかで、逆に、現実を生々しく浮き彫りにする役割を果たす。フレッシュのゲームなかで、最初にキングの位置にあるのは間違いなく金である。彼は、金さえあればいつかすべてのものが手に入ると信じている。ところが、彼にとって本当に大切なものが、意味のない駒のように殺されてしまったとき、駒の位置づけが変わる。いや、正確には位置づけが変わるだけではない。ゲームそのものが変わるのだ。フレッシュにとってチェスは、大人の世界に順応するためのゲームだった。しかし、大切なものを失ったとき、チェスは、大人の世界を強引に自分の世界に引き込むためのゲームに変わる。彼は、復讐のために、必死に大人の世界を自分の土俵に引き込もうとする。そこに、12歳の少年の怒りや幼さ、悲しみなどが見事に凝縮されていくのである。
しかし、ゲームの結末は甘くない。フレッシュの父親は、フレッシュがゲームのなかでキングを金に見立てているとき、息子のチェスを守りのチェスだとたしなめる。そのフレッシュのゲームが変わったとき、彼は、父親の望む攻撃のチェスで自分の目的を果たすと見ることができる。しかしながら、この父親のチェスは、正規のそれではなく、自分が絶対に勝てるスピード・チェスであり、父親は、実は人生の意味を見失った逃避に走っているのだ。イェーキンは、そんなチェスの苦々しい結末を、初めて感情をあらわにするフレッシュを通して、見事に浮き彫りにするのである。
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