フローズン・リバー
Frozen River


2008年/アメリカ/カラー/97分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:「キネマ旬報」2010年2月上旬号、若干の加筆)

 

 

他者、境界、社会への眼差しと南部人の感性が
際立った強度と奥深い世界を生み出す

 

■■フェミニズム的な視点は一側面に過ぎない■■

 サンダンス映画祭グランプリ、アカデミー賞二部門ノミネートを始め、世界各国で賞賛を浴びている『フローズン・リバー』。1964年生まれの女性監督コートニー・ハントの長編デビュー作は、一見すると二人の女性を主人公にしたシンプルな物語のように見える。

 新居を購入するための資金をギャンブル依存症の夫に持ち逃げされ、15歳と5歳の息子を抱えて途方に暮れている白人女性レイ。夫を事故で亡くし、赤ん坊を義母に奪われ、八方塞の状況に陥っている先住民モホーク族の女性ライラ。偶然に出会った二人は、それぞれの窮状を打開するために、不法移民を密入国させる犯罪に手を染めていく。よそ者を快く思わない彼女たちは、最初は取っ組み合いまで繰り広げるが、お互いの家庭の事情を知るに従って、絆が芽生えていく。

 しかし、そうしたフェミニズム的な視点は、あくまで映画のひとつの側面に過ぎない。監督のハントは、幅広い関心と独自の感性や視点を結びつけ、奥の深い世界を作り上げている。そこで、女性映画にとどまらないこの作品の魅力を、多面的に掘り下げてみたい。

 映画の舞台はニューヨーク州北部、俗にアップステイトと呼ばれる地域だ。レイは、セントローレンス川を挟んでカナダと国境を接する小さな町に暮らし、ライラはその町と隣り合う先住民の保留地に暮らしている。ハントは、この地域の厳しい気候風土や低所得者の苦しい生活を、ドキュメンタリーに近いスタイルで描き出していく。レイと息子たちが住む古いトレーラーハウスは、実際にそこに暮らす住民から借り、手を加えずに撮影している。だが、監督が求めているのは決して単なるリアリズムではない。

■■国境と他者、動かない境界と動く境界■■

 この映画の冒頭の映像には、ハントの関心が表れている。氷に覆われたセントローレンス川、飛び去る鳥の群れ、フェンスが次々に映し出された後で、カナダ側からコーンウォール橋を渡ってきた大型トラックが、アメリカ側の入国管理所に到着する。鳥には国境がないが、人間にはある。ハントはこの映画のなかで、国境を含めた様々な境界を見つめる。その境界は大きく二つに分けることができる。

 ひとつは定着している境界、頭のなかに植えつけられた境界、動かない境界だ。レイとライラは異なる境界に隔てられている。モホーク族の保留地は、川を挟んでカナダとアメリカにまたがっている。ライラは、コーンウォール橋を白人の橋と呼ぶ。凍った川は部族の橋となり、往来が自由になる。保留地に乗り込んだレイは、そこがニューヨーク州だと思っているが、保留地では州法は適用されない。この二人の境界は簡単には揺らがない。

 もうひとつの境界は、グローバリゼーションを背景とした動く境界といえる。主人公が請け負う仕事には、皮肉なユーモアが盛り込まれている。不法移民を運ぶたびに、車のトランクからは言葉も文化も宗教も違う人々が飛び出してくる。筆者がハントにインタビューしたとき、彼女は、世界がいきなり迫ってくる感じを表現したかったと語っていた。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   コートニー・ハント
Courtney Hunt
撮影監督 リード・モラノ
Reed Morano
編集 ケイト・ウィリアムズ
Kate Williams
音楽 ピーター・ゴラブ、シャザード・イズマイリー
Peter Golub, Shahad Ismaily
 
◆キャスト◆
 
レイ   メリッサ・レオ
Melissa Leo
ライラ ミスティ・アッパム
Misty Upham
T.J. チャーリー・マクダーモット
Charlie McDermott
ジャック・ブルーノ マーク・ブーン・ジュニア
Mark Boone Junior
フィナーティ警官 マイケル・オキーフ
Michael O’Keefe
ガイ・ベルサイユ ジェイ・クレイツ
Jay Klaitz
ジョン・カヌー バーニー・リトルウルフ
Bernie Littlewolf
ジミー ディラン・カルソナ
Dylan Carusona
ビリー・スリー・リヴァーズ マイケル・スカイ
Michael Sky
-
(配給:アステア)
 
 
 
 

 但し、レイはグローバリゼーションと無縁ではない。5歳の息子から不用になったトレーラーハウスがどうなるかと尋ねられたレイは、中国に運ばれてオモチャになり、ママが1ドルショップで売るのだと答える。そういう知識を持つ彼女は、中国人をいくらか身近に感じている。だからライラと組むときも、“移民”ではなく“中国人”を運ぶのを手伝うと語る。

 そんな伏線があるため、何度目かの仕事でこれから運ぶのが中国人ではなくパキスタン人だと知ったとき、レイは激しくうろたえる。彼女にはまったく未知の移民がテロリストのように見える。だから運ぶ途中で大きな間違いを犯してしまう。しかし、それが致命的な過ちになるのをかろうじて回避し、移民のなかに人間の顔を見出したとき、彼女に植えつけられた境界が確実に揺らいでいく。

■■レーガン政権、80年代以後のアメリカ社会■■

 この原稿の冒頭で、レイとライラは偶然に出会ったと書いたが、そこにはアメリカ社会に対する批判が込められている。それを明確にするためには、80年代まで遡る必要がある。マイケル・ムーア監督の『キャピタリズム マネーは踊る』にも描かれていたように、金持ちを優遇するレーガン政権の税制改革によって社会には格差が広がった。その状況は根本的に変わっていない。それと同時に80年代には、先住民の保留地にギャンブル施設が定着していった。レーガン政権が、医療や住宅供給など、教育を除くほとんどの分野で保留地への補助を大幅に削減し、財源を確保する手段が限られた先住民は、ギャンブル施設を選択することを余儀なくされたからだ。

 レイの夫は、保留地のギャンブル施設に通っていた。その夫が大金を持ち逃げしたことを知った彼女は、当然その施設に探しにいく。そして、施設で従業員として働くライラに出会う。そのライラは、仮に赤ん坊を取り戻したとしても、従業員の収入では養っていくことができない。ふたりの出会いの背景には、80年代以後のアメリカ社会の現実がある。

 筆者がハントにレーガン時代と映画の関係について尋ねたとき、彼女は、レーガンが原因で生まれた貧しいことは恥だという風潮に対する怒りを露にしていた。この映画が始まったとき、レイは自分が貧しいことを恥じている。集金に訪れる住宅業者やレンタルテレビの業者は、明らかに彼女を見下している。だから彼女は、無理をしても最高級のトレーラーハウスを手に入れようとする。彼女が持っている住宅のパンフレットにある夢の暮らし≠ニいうコピーは、レーガンが生んだ風潮と結びついているといえる。

■■土地に深く根ざした南部人の感性■■

 さらに、ハントがテネシー州メンフィス出身であることも見逃すわけにはいかない。映画、文学、音楽を問わず、南部出身の作家には、土地に深く根ざした世界を切り開く傾向がある。たとえば、『ハッスル&フロウ』や『ブラック・スネーク・モーン』の監督クレイグ・ブリュワーは、メイフィスに暮らし、メンフィスで映画を撮り、自分の創作を“リージョナル・フィルムメイキング”、すなわち地域密着の映画作りと位置づけている。そして、ハントもまた例外ではない。

 彼女は、南北戦争を題材にした短編も含めてこれまでの短・長編をすべてアップステイトで撮影している。それは、アップステイトの風景にテネシーの土地を、セントローレンス川にミシシッピ川を感じるからだという。だがもちろん、ハントは単に故郷に似た風景を求めているわけではない。彼女はフラナリー・オコナーのように、土地と人間の関係を突き詰め、神話的ともいえる象徴的な世界を切り開いている。

 レイは、再びギャンブルに溺れるようになった夫を銃で脅し、足元に発砲したことがきっかけで、窮地に陥ることになった。ライラは、夫が無理な横断を試みて水死したために、孤立することになった。レイとライラの最後の仕事では、そんな過去が繰り返される。レイは、約束の金を払わない仲介人の足元に発砲し、川辺に追い詰められたふたりは、無理な横断を試みる。そんな繰り返される時間ののなかで、二人は過去と向き合い、凍りついた川に浄化され、未来を選択していく。

 ドキュメンタリーに近いスタイル、他者や境界、アメリカ社会に対する鋭い視点、シンプルに見えて緻密な構成、南部の土地に起因する独自の感性。この映画では、多様な要素が実に見事にまとめあげられ、際立った強度と深みを生み出しているのだ。

■付記

コートニー・ハントは、テレンス・マリック監督の『地獄の逃避行』に大きな影響を受けているが、そのことについては「コートニー・ハントの長編デビュー作『フローズン・リバー』」「ブルース・スプリングスティーン――『ネブラスカ』が語るもの」を参照されたい。


(upload:2010/03/02)
 
 
《関連リンク》
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