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監督たちは、イゴールと父親の絆の表現について、「ドアのノックのしかたのような細かな動作までそっくりにし、一瞬画面に手や足が映っただけではどちらのものであるのかわからないような演出を試みた」という発言をしている。
そうした緻密な演出は、実際に映画をご覧になればおわかりいただけるはずだが、この絆のイメージはドラマの展開のなかで暗黙のうちにさらに多くのことを語っている。そこまでひとつの価値観を植え付けられた人間が変わろうとするということは、
ほとんど自己というものを捨て去り、もうひとりの自己を見つけ出さなければならないということを意味している。
この父子に関する緻密な演出のなかでも、何でもないことのように見えながら監督たちの厳格な眼差しを感じさせるのが、強い意志を持って夫の帰りを待とうとするアシタに対する父子それぞれの駆け引きである。
まずイゴールは、ナビルを使ってアシタに金を渡そうとする。そして今度は父親が、ナビルを使ってアシタを襲わせようとする。父子のなかにある感情は明らかに違うものだが、彼らは、まったく同じ手を使って自分の苦境や苦悩から逃れようとする。
これも言葉にしてしまえば平凡だが、映像は、イゴールを縛っている習性と微妙な心の揺れのギャップを冷徹に浮き彫りにする。そんな演出が、イゴールが指輪を売るシーンなどを、よりいっそう印象深いものにしているのである。
さらにこの映画の象徴的なイメージは、神を見失ってしまった父子といまだに強い信仰を持っているアフリカ人家族のコントラストを鮮明にし、イゴールの葛藤は必然的に信仰の領域へと広がっていく。
彼が、見えない力に漠然とした恐れを感じ、自分の弱さを思い知り、心の慰めを求め、何よりも罪に目覚めるとき、そこに信仰が見えてくるのだ。
しかしもちろん、この映画の本当に素晴らしいところは、そんな人間の本性を見極めようとする緻密な構成が、これ見よがしに前に出るのではなく、ドキュメンタリー的な視点と絡み合い、見事なまでに日常のドラマとなっているところにある。
ダルデンヌ兄弟は、一方では、驚くほど緻密な構成や演出を試みながら、もう一方では、経験の浅い俳優たちを好んで起用し、撮影現場に自由な試行錯誤が可能な環境を作り上げ、彼らのなかから生の感情を引き出してしまう。
これは現実的には決して容易ではない作業だが、彼らが映画を作るにあたってこうしたかたちをとる気持ちはよくわかる気がする。彼らにとって映画とは、自己と他者への"問いかけ"に他ならない。
緻密な構成は決してあらかじめ明らかな答に向かうレールではなく、問いかけをいっそう明確にしていくための準備であり、撮影現場は問いかけに対する答を模索する場なのだ。
そして、この問いかけをぎりぎりのところまで突き詰めていったとき、おのずとそこに見えてくるものこそが、この映画の素晴らしいラストシーンなのである。
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