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映画にはそれと並行して、呉監督の個人的な世界も盛り込まれ、彼と父親、そして親友との関係が描きだされる。監督の父親は、病気に苦しみ、施設で車椅子の生活を送っている。生きる気力を失ってしまった父親と面会する監督は、自分が何もできないことに苛立つ。その父親は、地震で行方不明になった肉親を探しつづける家族の話をしても、地震がここで起こればよかったと答えるのだ。一方、監督の親友は、父親との関係や映画の方向性をめぐって戸惑い悩む監督にとって頼もしい助言者となる。映画では、監督とその親友との往復書簡が、ナレーションのかたちで映像に重ねられていく。
ところが、映画のエンディングで意外な事実が明らかにされる。監督の親友は、この映画が作られるずっと前に亡くなっていた。ということは、往復書簡はフィクションなのだ。確かに、監督の父親は画面に出てくるが、親友は最後まで姿を現すことがない。映画のプレスには、監督のこんなコメントがある。
「父のことを考えていながら、亡くなった親友のことをふと思い出していることがよくあったのです。父はまだ生きているけれど、僕にとってはこの世に存在していないも同然の人になりつつあった。一方で、友人は亡くなってからもう何年もたつのに、僕の心の中でずっと生きているかのように感じられた」
呉監督はこの映画で、フィクションや夢、記憶などを現実と対等に扱う。たとえば、地震でふたりの息子を亡くした張美琴や次女を亡くした呉玉梅は、夢を通して子供たちの言葉や気持ちを受け取り、それが立ち直るきっかけとなる。
そんなアプローチは、昨年(2004年)の12月に公開されたエミリー・ヤング監督の『キス・オブ・ライフ』を想起させる。死を題材にしたこのドラマでは、生と死の間に明確な境界線が引かれることはない。死んだヒロイン、残された家族、8ミリに刻まれた家族の思い出、彼らの夢や幻想など、すべては同じ次元で描かれる。ヒロインが死んだ時点から、彼女だけが特別な存在になるのではなく、家族や家そのものが生と死の狭間に置かれ、限られた時間のなかで彼らの想いが交錯し、死が受け入れられていく。さらに、ヒロインの死は、シンクロニシティによって、家族と離れて戦火で荒廃したクロアチアにいる夫にも影響を及ぼす。生と死の狭間の空間で、彼女は生から死に向かい、夫は死の世界から生へと向かうのだ。
呉監督もこの『生命』のなかに、そんな生と死の狭間の空間を構築する。地震で両親を含む家族7人を亡くした女子大生の羅佩如は、心を閉ざし、呉監督との接触も拒絶する。そして、やっとカメラの前に立つと、その映像を遺書の代わりにするつもりだと語る。その姿は、監督の父親に重なる。監督は、彼女をそっとしておくべきか、積極的に踏み込むべきか悩み、親友に相談してきたが、親友は次第に沈黙するようになる。頼れる存在を失った監督は、自分の判断で彼女と向き合い、厳しい言葉を彼女に浴びせる。そして、監督のなかで親友は生から死に向かい、自殺を考えていた彼女は、死の世界から生へと向かうようになるのだ。
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