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前作とそんな繋がりを持つこの映画は、まず皮肉なユーモアによって観客をドラマに引き込む。主人公は老婆の死のことしか頭にないが、彼の周囲は生の営みに満ちている。
家畜は路上で交尾し、足元ではフンコロガシが糞を運び、穀物が豊に実り、昨日まで妊婦だった叔母さんがあっという間に子供を産んでしまったばかりか、何事もなかったように働きだし、
ついには老婆まで病状が持ち直す。プロデューサーから電話で急かされる主人公は苛立ちを隠せないが、そんな彼の転機となるのもまた皮肉な出来事といえる。
彼は、丘で穴を掘る人夫が生き埋めになったことに気づき、彼を助けるために奔走するのだ。
主人公にとって老婆の死を象徴していた穴から、同じ主人公が生を引きだすのに貢献するというのは何とも皮肉な話だが、この映画はそんな展開を通して観客をただのユーモアではなく、
もっと深い世界へと引き込んでいる。
たとえばこの映画では、老婆の死を待つ人物たちの立場の違いが、その動作によって暗示的に表現されている。
クルーの案内役をつとめる少年の小叔父さんは、他の村から休暇をとっては老婆の見舞いに訪れる。彼は、死に目に会えるように老婆の家の外に静かに座り込み、村を往復するときの足取りも決して重くはない。
一方主人公は、携帯が鳴るたびに砂埃をあげながら丘の上までクルマを走らせるのだが、この繰り返される動作はだんだん重く見えてくる。
ところがこの主人公が、生き埋めになった人夫を救い、現場に駆けつけた医者を老婆のところにも連れて行こうとするとき、自分のクルマではなく医者のバイクに乗る彼の姿は明らかに軽く見える。
ちなみに筆者が来日したキアロスタミにインタビューしたとき、彼は、意識して小叔父と主人公の動作を対照的なものにし、最後に軽くなる主人公の気持ちを描いたと語っていた。
この軽くなる気持ちというのは、主人公が死にかける人夫を目の当たりにして死に対する意識が変化したともいえるが、キアロスタミはもっと別なかたちで表現している。
それは見えないものに対して心を通わせる力だといってよいだろう。
ここで大きな意味を持つことになるのが、この映画に散りばめられた空白である。老婆の家の前に座る小叔父は、姿は見えなくとも家のなかの老婆と心を通わせている。
主人公にとってその老婆は遠い存在だが、実は彼は転機となる出来事が起こる以前に無意識のうちに見えない老婆に通じる糸口を見出している。彼は姿が見えない穴のなかの人夫と次第に親しくなり、
人夫の恋人に牛乳を分けてもらいに行く。その恋人も闇に包まれた穴倉のような牛舎で働き、主人公に顔すらも見せないが、主人公は闇に佇む彼女に詩で語りかける。
そんな見えないものと心を通わせようとする行為が、彼を転機へと導き、見えない老婆へと近づけ、彼の心を解放するのである。
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