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河合隼雄総編集の『心理療法とイニシエーション』には、以下のような記述がある。「制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。(中略)言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった」「イニシエーションという言葉は、不幸にもオウム真理教という事件と関連して、一般の人々に、強い負荷を背負って知られることになってしまった。しかし、イニシエーションということは、現代人にとって極めて重要なことと筆者は思っている。だからこそ、オウム真理教もそれによって、知的に高い若者たちを惹きつける力をもったのであろう」。
さらに、鎌田東二の『呪殺・魔境論』では、同じことが以下のように表現されている。「子どもが大人になるということ、そして一個の人格が理想的な形態に向上・成長し、変身・変容していくことについて、戦後社会は完全にモデルと方法を喪失し、"イニシエーションなき社会"になってしまったのだ」「オウム真理教ほど明確にイニシエーションの重要性を訴えかけた教団はなかったことが教勢拡大の最大の原因だったと思う」。
塩田監督がこれまでの作品で掘り下げてきたのは、いわば自前のイニシエーションだった。それに対して『カナリア』では、光一と由希を通して、その本質はどうあれイニシエーションを前面に出した教団とイニシエーションなき社会というふたつの世界が対置される。それが、異なる世界を切り拓く基盤になっているのだ。これまでの作品では、『月光の囁き』の拓也、『どこまでもいこう』の光一、『害虫』のサチ子など、自前のイニシエーションの背景には、常に父親の不在があった。『どこまでもいこう』の物語の中心的な存在はアキラだが、母子家庭で妹の世話をする光一にここで注目しておくことには意味がある。『カナリア』の光一は、明らかにそこから発展してきているからだ。
その『カナリア』の光一の前には、父親的な存在が立ちはだかる。教団はイニシエーションとして母親と彼の絆を断ち切ろうとする。彼は母親を取り戻すために、教育係や幹部に反抗し、あるいは修行の階段を駆け上がっていく。そしてイニシエーションは、教団から解放されてもつづく。彼の前には祖父が立ちはだかるからだ。彼は祖父に殺意を抱き、ドライバーの先を研ぎつづける。突き詰めれば、母親を取り戻すためには、父親的な存在を殺さなければならないのだ。こうして、教団を契機としたイニシエーションは、神話的な物語になっていく。
由希はそんな光一を説得しようとするが、教団の悪事を批判するだけの正論では通用しない。彼女自身が、イニシエーションなき社会で、出口もなく彷徨っている人間であるからだ。彼女が個人でできることといえば、出会い系サイトで金を稼ぐことだが、光一は暴力でそれを阻止する。そして今度は彼女が光一の世界に踏みだす。彼女もまた神話を共有し、彼のドライバーを引き継ごうとする。つまり彼らは、ふたつの世界の狭間でせめぎあいながら、個人的で普遍的でもあるイニシエーションに至ることになるのだ。
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