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極端な言い方をすれば、彼らを結びつけているのはウイルスである。しかもこのウイルスは、モーテルの宿泊を拒否されるというような旅の重荷になるばかりではなく、警官の嫌がらせを逃れる一助になったり、キョウコを窮地から救うのに大きな役割を果たすことにもなる。この映画では、そんなふうにして、ウイルスというものの存在がきわめて自然なかたちでドラマに絡み合っていくのだ。
そして、ふたりの旅が終わりに近づいたとき、彼らが作る空間のなかに定着したウイルスの絆が、ある出来事をきっかけにダンスの絆へと反転する。そんなウイルスからダンスのイメージへの鮮やかな変容が、この一見ストレートなロード・ムーヴィーの向こう側に魅力的な世界を切り開いていく。小説『KYOKO』には、ホセを語り手としたこんな表現がある。
「ボクはキューバからダンスを運びアメリカを経て日本で小さな女の子にそれを植えつけた、やってることはウイルスと同じだ」。この映画には、そんな視点が、言葉を排除したイメージで表現されている。
ちなみに、村上龍はいまウイルスに対して強い関心を持っているらしく、「五分後の世界」の続編「ヒュウガ・ウイルス」は、題名が物語ってもいるように、ウイルスが中心にすえられるという。そこからどのようなウイルスのイメージが浮かび上がってくるのかはまったく想像がつかないが、この映画に見られるウイルスに対する視点だけでも、かなり興味深いものがある。
というのも最近では、ウイルスは、病気の原因となるものから、生物の進化に重要な役割を果たし、人類の未来の鍵を握るものへと、その考え方が大きく変わりつつあるからだ。
村上龍は、これまで独自の視点から"進化"ということにこだわってきた。『トパーズ』のあとがきには、この短編集のヒロインたちの存在についてこんな表現がある。「彼女たちが捜しているものは、(中略)これから先、人類が存続していく上で欠かせない「思想」なのだと思う。出来事の説明などではなく、地球をつらぬく思想を支えてきたのは、いつでも女だったはずだ」。
キョウコは、そんな「トパーズ」のヒロインたちの世界から一歩踏みだし、セックスや暴力、ドラッグではなく、キューバの音楽とダンス、そして、ウイルスの世界へとたどりつくのだ。
そのキョウコのイメージや存在は、小説と映画ではある意味でとても対照的に描かれている。小説では物語は、キョウコが出会う男たちの一人称の視点で綴られ、複数の視点が交錯する物語からは、とても現実には存在しえないような強く純粋で美しいヒロインが浮かび上がる。一方、映画では、一人称のナレーションを入れて小説のヒロインのイメージに近づけるような細工は一切なく、
キョウコに扮する高岡早紀がその存在を一手に引き受けている。それゆえに、この映画については小説と対比して、ヒロインのイメージの広がりがないことを批判する向きもあったようだ。
しかし筆者が注目したいのは、小説にしても映画にしても、村上龍があえてヒロインの内面に踏み入ろうとはしないことだ。そのことがヒロインの存在に強度をもたらしている。特に映画では、ナレーションを入れない潔さが、小説とは違う強度を生み出している。キョウコは、感情的な結びつきやドラマに依存することなく、ひとつの方向に向かって、小説のあとがきにあるように「風のように通り過ぎていく」。
それは彼女が、小さな世界であたふたしている男たちと違って、苛酷な歴史のなかでたくましく生き延びてきたキューバのダンスや進化の鍵を握るウイルスの営みを見つめていることを意味しているのではないだろうか。
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