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『スパイシー・ラブスープ』の場合は、コミュニケーションの変化を様々なかたちで描きながら、それを否定も肯定もしないことが成功していた。ひとつ間違うと自分の居場所がわからなくなるような浮遊感をどう解釈するかは、観客にゆだねられている。だから、解釈しだいで、消費社会の怖さを積極的に読み取ることもできた。
しかし、この『こころの湯』では、チャン・ヤンのスタンスがきわめて曖昧だ。たとえば、この映画は、ファイト・ヘルマーのドイツ映画『ツバル』と対比してみると興味深い。2本の映画は共通する主題を扱っている。『ツバル』は、再開発が進む地域に残された古いプールを守ろうとする人々の姿を描いている。ヘルマーは、「人はプールに泳ぎにきているのではなく、
人に会うために集まっている。現実に目を向けるとこのプールのような場所がどんどん減っている」と語っている。
その『ツバル』には、主人公の兄グレーゴルや彼が持ち込む奇妙なデジタル機械を象徴として、プールを壊そうとする存在が明確に描かれている。だからこそ、主人公とその仲間は、人間の心を象徴するアナログ機械を運びだす。これに対して「こころの湯」では、ただ再開発というだけで、なにがこの銭湯という伝統的なコミュニケーションを壊そうとしているのかが明確にされない。
それを明確に描けば批判となるから、あえて描かなかったのかもしれない。そう考えると、確かにこの映画には、銭湯の世界だけで物語を完結しようとする狙いがあるようにも見える。しかしそれならば、かつてターミンがなぜ銭湯を継ぐことを拒み、変貌する中国になにを期待し、深?でどのような生活を送っていたのかを、もっと明確にするべきだろう。彼と妻との電話のやりとりだけでは、単に知的障害のある弟がいることが重荷で、深?に逃避していたようにも見えかねない。
なにが伝統的なコミュニケーションを壊そうとしているのかも明確にされず、かといって異なる世界と人生を選んだターミンの心の変化に現代の中国社会が垣間見られることもない。となれば、いくら人間と水の関係を掘り下げようとしても、結局この映画は、ノスタルジックな人情もので終わってしまう。『スパイシー・ラブスープ』のチャン・ヤンの視点や感性をもってすれば、そのどちらかを、巧みに描きだすことができたはずだろう。
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