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もちろん映画にもそういう要素は盛り込まれている。しかし、映画の方は、韓国人と日本人の境界よりも、登場人物たちの個性や繋がりを過剰さとポップなセンスで描くことに比重が置かれている。たとえばそれは、杉原の家族の関係である。小説では、境界をめぐって向こう側からあの手この手の鋭い揺さぶりが繰り出されるが、映画は、極端に言えばこの家族の在り方そのものを日本の社会にぶつけている。
父親の秀吉は元プロボクサーで、杉原が悪さして警察につかまると、警官が度肝を抜かれるほど息子をボコボコに殴り、「今回も家裁行かなくて済んだぞ、感謝しろありがとうは?」とうそぶく。母親の道子は、家出を切り札にしてその凶暴な父親を手なずけ、杉原と仲間たちをガキ扱いし、有無を言わせない。杉原は母親には頭が上がらないし、父親にはボコボコにされっぱなしだが、しかし暗黙のうちに、彼らに導かれ、支えられ、広い世界へと踏みだしていく。荒っぽい関係ではあっても、彼らは必然によって結びついているのだ。
歴史や伝統、イデオロギーといった基盤もなく、消費社会に組み込まれた家族から確実に失われていくのは、家族を構成する個と個を結びつける必然だ。消費社会は画一化された幸福のイメージをばらまき、家族は、内なる必然によって家族であろうとするのではなく、イメージを生きることで家族であろうとする。しかし、どっちを見ても同じ画一的な幸福は、自己を相対化し、現実を自覚的にとらえる視座をもたらす外部を消し去り、閉塞していくしかない。桜井の父親は海外経験も豊かな教養人に見えるが、その言葉にはリアルな外部を感じとることはできない。杉原の家族は、そんな桜井の家族に象徴されるような表層的な世界を挑発する。
『GO』は、国籍や民族の境界に揺さぶりをかけるというよりは、個と個を結びつける必然をダイナミックに描くことによって、閉塞した社会に揺さぶりをかける映画なのだ。
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