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『コレクター』に登場する猟奇的な犯罪者は、拉致した娘たちを私物化し、彼女たちの人生を支配しようとする。アメリカ南部を舞台にしたこのドラマで、この犯罪者を追い詰めるのは、地元警察でもFBIでもなく、ワシントンDCからやって来たベテランの刑事と地元の女性外科医である。なぜなら、刑事は姪が誘拐されたからであり、外科医は彼女自身も拉致され、自分だけが命懸けの脱出に成功したからだ。しかし、それぞれの内面にはこの事件に限定されない別の感情が潜んでいる。刑事は南部では黒人の被害者に対して真剣な捜査が行われないことも危惧し、外科医は格闘技のトレーニングを積んでいるのだ。
2本の映画は、スタイルも設定もまったく異なるが、ギャングの世界であれ、人種やジェンダーの領域であれ、そこには力による支配と被支配の図式が浮かびあがる。この監督は、そうした主題に関心を持ち、権力の支配に対する精神的、肉体的な自由を描きだそうとする。それはもちろん『クローン』にも当てはまる。クローンの疑惑をかけられたスペンサーは、圧倒的な権力の支配のもとで、偽物として抹殺されるか、人間であることを証明するかの二者択一を迫られる。
そして、スタッフでもうひとり見逃せないのが、脚本に名前を連ねるアーレン・クルーガーの存在だ。この映画の脚色では、次の2点がポイントになる。ひとつは、スペンサーの妻のキャラクターを膨らませることによって、結末のどんでん返しを原作と異なるものにしていること。もうひとつは、ほとんどドームのなかで物語が展開する原作に対して、ドームの外部である“ゾーン”を具体化することによって、ケールというキャラクターを創造し、第三者的な視点を導入していることだ。
このポイントはクルーガーの出世作である『隣人は静かに笑う』に通じるものがある。その脚本では、爆破テロが起こったセントルイスという都市と主人公の教授が住む一見安全に見える郊外住宅地の関係から、皮肉なドラマが紡ぎ出される。教授は単独犯によるテロという発表に疑問を覚え、隠れた共犯者が再度犯行に及ぶ危険を警告する。ところがそんな教授は、郊外住宅地という見せかけの安全に足元をすくわれ、気づかぬうちにテロリストへと改造されていく。まるで爆弾を抱えたクローン人間のように。
『クローン』はこの『隣人は静かに笑う』の見事な裏返しである。この未来世界では都市と郊外が逆転している。ドームによって安全が確保された都市には特権階級が暮らし、弱者は外部のゾーンに追いやられている。エリートからいきなりクローン人間に転落したスペンサーは、教授とは逆に危険なゾーンに住むケールに救われ、疑惑を晴らすかに見える。しかし、最後に驚愕の真相が待ち受けている。
ゲイリー・シニーズとヴィンセント・ドノフリオは、『隣人は静かに笑う』のジェフ・ブリッジスとティム・ロビンスのような歪みをもった対決を繰り広げる。嫌疑をかけられるシニーズは、その表情に苦悩を滲ませ、ひらすら人間臭い。一方、人間とクローンの見極めに誤りがあったとしても、断固として使命を遂行していこうとするドノフリオは狂気をはらんでいる。そして忘れてならないのが、ケールに扮するメキー・ファイファーの存在だ。この映画が、スペンサーと行動をともにした彼の視点で終わるのは大きな意味を持つ。兵器を開発していることに後ろめたさを感じていたスペンサーは、ケールとの関係を通していくらかでも救われることになる。ドラマはあくまでクローン疑惑の真相に向かって突き進むが、その真相を越えたところでスペンサーを思うケールの存在が、独特の余韻を残すのだ。
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