マイ・ネーム・イズ・ジョー
My Name is Joe


1998年 / イギリス / カラー / 104分 / ドルビーデジタル / 1:1.85
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(初出:『マイ・ネーム・イズ・ジョー』劇場用パンフレット)

 

 

『トレインスポッティング』に対するローチの返答

 

 

 『マイ・ネーム・イズ・ジョー』は、ダニー・ボイルの『トレインスポッティング』に対するケン・ローチの返答だと書いたら、きっと多くの人が首をひねることだろう。イギリス映画界で孤高の道を歩むローチの新作と若者に圧倒的に支持されるトレンディーな映画に何らかの接点があるとは考えにくい。しかし、この二本の映画は非常に深い結びつきを持っている。

 快進撃をつづけ、世界の注目を集める現代のイギリス映画は、ストーリーや表現スタイルなど実にヴァラエティに富んでいるが、そこには共通する大きなテーマがある。 それは簡単にいえば、これから未来に向かって、コミュニティの人間的な絆を取るのか、金によって得られる個人の幸福を取るのかということである。この二者択一の背景には、イギリス社会の急激な変貌がある。

 イギリスといえば、かつては「揺りかごから墓場まで」のスローガンが物語るように福祉を理想としてきたが、80年代に政権を担った鉄の女サッチャーは、 財政を圧迫する福祉優先の政策から自由主義経済へと大胆な方向転換を断行した。

 サッチャリズムと呼ばれるこの大改革は、突き詰めれば国民ひとりひとりが国ではなく自分だけを頼りに生きていくことを意味していた。 その結果、人々の競争意識が高まり、アメリカ的な消費社会が拡大し、確かに経済は好転した。しかし同時に、極端な上昇志向や拝金主義がはびこるようになり、富める者はもっと豊かになり、 切り捨てられた弱者はもっと貧しくなってしまった。

 かつてのイギリスには、それぞれの地方や階層によってお互いに助け合うコミュニティがあったが、いまや頼れるのは自分だけで、金がなければ何もできない。 拡大する消費社会の裏ではドラッグをめぐって大金が動いている。そんな状況から、コミュニティか金かという二者択一が生まれるのだ。

 たとえば、『シャロウ・グレイブ』では、仲良しに見えた三人組が、ドラッグ絡みの大金が転がり込んできたことから壮絶な殺し合いを繰り広げ、『トレインスポッティング』の主人公レントンは仲間を裏切って、 ひとりで金という未来を選ぶ。

 一方、『フル・モンティ』『ブラス!』では、未来を選べず、合理化の犠牲にされた人々が、ストリップやブラスバンドを通してコミュニティの絆を取り戻そうとしていく。 『トゥエンティフォー・セブン』では、バブルに溺れて失業した中年男が、消費社会と貧富の差が拡大するなかで解体してしまったコミュニティを、ボクシングを通して再建しようとする。 しかしそこには、厳しい結末が待ち受けている。

 『マイ・ネーム・イズ・ジョー』の主人公ジョーは、失業中の身ではあるが、監督としてグラスゴーで最低のサッカーチームを率い、コミュニティのまとめ役になっている。


 
◆スタッフ◆

監督
ケン・ローチ
Ken Loach
脚本 ポール・ラヴァティ
Paul Laverty
撮影 バリー・エイクロイド
Barry Ackroyd
編集 ジョナサン・モリス
Jonathan Morris
音楽 ジョージ・フェントン
George Fenton
製作総指揮 ウルリッヒ・フェルスベルグ
Ulrich Felsberg
製作 レベッカ・オブライエン
Rebecca O'Brien

◆キャスト◆

ジョー
ピーター・ミュラン
Peter Mullan
セーラ ルイーズ・グッドール
Louise Goodall
シャンクス ゲイリー・ルイス
Gary Lewis
リーアム デイヴィッド・マッケイ
David McKay
サビーナ アン・マリー・ケネディ
Anne Marie Kennedy
スコット スコット・ハンナ
Scott Hannah
マガウアン デイヴィッド・ヘイマン
David Hayman
マギー ロレイン・マッキントッシュ
Lorraine McIntosh

(配給:シネカノン)
 
 


  『トゥエンティフォー・セブン』とは違い、この映画ではまだ旧来のコミュニティが何とか生き延びている。しかしそこに影が忍び寄る。チームの一員でもあるジョーの甥とその妻がドラッグの泥沼にはまり、 彼らを救おうとするジョーはトラブルに深入りし、苦しい立場に追い込まれていくのだ。

 この映画でまず注目したいのは、アル中とヤク中が象徴するものだ。アル中は昔から労働者の日常のなかに存在していたが、ドラッグが一般の労働者のあいだに広がるのは、サッチャリズム以後のことだ。 そしてこのドラッグは、コミュニティの絆を分断し、解体に追いやっていく。そんな現実を背景として、この映画は、まさに『トレインスポッティング』に対するローチの返答になる。 二本の映画は同じ現実を対極の立場から描いていることになるからだ。

 『トレインスポッティング』では、主人公レントンの仲間のベグビーが、ドラッグを嫌い、酒で暴れるという旧来の労働者の価値観を象徴している。 レントンはそんな仲間を裏切り、金という未来を選び、コミュニティは解体していく。

 一方『マイ・ネーム・イズ・ジョー』では、アル中を克服したジョーが旧来の労働者を象徴し、ドラッグで儲け、 すべてを金で割り切る町の顔役マガウアンがサッチャリズム以後の価値観を象徴している。ジョーは、ドラッグや金のためにコミュニティが分断されることを食い止めるために、仕方なくマガウアンのビジネスを手伝い、 悲惨な結末を迎えることになる。

 また、ジョーに扮するピーター・ミュランが、『トレインスポッティング』でドラッグの売人に扮していたことも、この二本の映画のコントラストを印象深いものにしている。

 『マイ・ネーム・イズ・ジョー』の結末の悲しみはあまりにも深く、絶望的な気持ちにすらなるが、それでもローチは決して自分の信念を曲げようとしない。リーアムの葬儀を終え、 墓地を後にする人々の姿をとらえたこの映画のラストには、サッチャリズム以後の社会のなかでどんなにコミュニティの絆が分断されようとも、 お互いをいたわりながら黙々と日々の営みをつづけてく人間がいるのだという確信を見ることができる。

 サッチャーが鉄の女であるならば、ローチもまた鉄の意思を持った監督なのである。

 
 
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