マーサ、あるいはマーシー・メイ
Martha Marcy May Marlene


2011年/アメリカ/カラー/102分/スコープサイズ/ドルビーデジタル
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(初出:「CDジャーナル」2013年2月号、大幅に加筆)

 

 

現実を単純化した二元論的な世界に
囚われてしまうことの恐怖

 

 アメリカの新鋭ショーン・ダーキンの長編デビュー作『マーサ、あるいはマーシー・メイ』は、ヒロインのマーサがカルト集団の農場を密かに抜け出すところから始まる。森を抜け、町に出た彼女は、取り乱しながら姉に電話する。結婚したばかりの姉は、建築関係の仕事をする夫と休暇を過ごしているところで、マーサは湖畔の豪華な貸別荘に迎えられる。しかし、彼女の精神状態は不安定で、現在とマーシー・メイという別の名前で過ごした過去、現実と幻想の区別がつかなくなっていく。

 この映画はそんなヒロインの視点に立ち、緻密にして巧妙な編集によって現在のドラマと過去の体験の境界が曖昧にされている。その映像は確かに効果的で、私たち観客も混乱させられる。一般的に言えばこれは、マインド・コントロールの恐ろしさを生々しく描き出しているということになるはずだ。だが、「普通」と「異常」という二つの世界があって、その境界が崩れていく映画であれば、筆者はさほど興味をそそられなかっただろう。

 実は筆者は映画を観る前から、製作総指揮にテッド・ホープの名前があることに注目していた。トッド・ヘインズの『SAFE』、アン・リーの『アイス・ストーム』、トッド・ソロンズの『ハピネス』や『ストーリーテリング』、トッド・フィールドの『イン・ザ・ベッドルーム』、マイク・ミルズの『サムサッカー』などを思い出してみれば、この新人発掘の達人がどんな関心を持っているのかわかるだろう。突き詰めれば、いずれも独自の視点で家族をとらえ、普通に見えるものから普通ではないものを炙り出す作品といえる。

 なかでもここで『SAFE』を振り返っておくことは決して無駄ではない。この映画のヒロインは、LAのサンフェルナンド・ヴァレーにある高級住宅地に暮らす主婦だ。ある日、彼女は化学物質過敏症に襲われる。そして苦痛に耐えられなくなると豪邸を出て、カルトといっていいようなコミューンに移り、なにも無い小さなドームに暮らし、自分は救われたと信じようとする。

 だが、ヘインズは化学物質過敏症を描こうとしたわけでも、コミューンを描こうとしたわけでもない。実はヒロインは、安全が確保された高級住宅地に暮らしているにもかかわらず、LAのインナーシティで起こっている犯罪や暴動に恐怖を覚えている。それがどんな心理であるかは、マイク・デイヴィスの『要塞都市LA』の以下のような記述が端的に物語っている。

ロサンゼルス・サウスセントラルやワシントンDCのダウンタウンのように、実際に街での暴力事件が急増した場所であっても、死体の山が人種あるいは階級の境界を越えて積み上げられることは滅多にない。だがインナーシティの状況について直接肌で感じた知識を持ち合わせていない白人中産階級の想像力の中では、認識された脅威は悪魔学のレンズを通して拡大されるのだ


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ショーン・ダーキン
Sean Durkin
製作 ジョシュ・モンド、アントニオ・カンポス
Josh Mond, Antonio Campos
製作総指揮 テッド・ホープ
Ted Hope
撮影 ジョディ・リー・ライプス
Jody Lee Lipes
編集 ザック・スチュアート=ポンティエール
Zack Stuart-Pontier
音楽 サウンダー・ジュリアンズ、ダニー・ベンシ
Saunder Jurriaans, Danny Bensi
 
◆キャスト◆
 
マーサ   エリザベス・オルセン
Elizabeth Olsen
パトリック ジョン・ホークス
John Hawkes
ルーシー サラ・ポールソン
Sarah Paulson
テッド ヒュー・ダンシー
Hugh Dancy
マックス クリストファー・アボット
Christopher Abbott
ワッツ ブラディ・コーベット
Brady Corbet
ゾーイ ルイーザ・クラウゼ
Louisa Krause
-
(配給:エスピーオー)
 

 このヒロインの問題は、不安や恐怖の原因をしっかりと認識できず、自分を取り巻く現実を見極められないところにある。彼女は物質的な豊かさに逃避し、自分をインテリア・デザイナーに見立て、部屋の模様替えを楽しもうとする。だが、その心の支えである物質が彼女に牙をむく。

 彼女はもっと他の部分に目を向けなければならないのに、化学物質過敏症という病とコミューンという二元論的な世界に囚われ、自分を見失っていく。そこがこの映画の恐ろしいところなのだ。

 そして、『マーサ、あるいはマーシー・メイ』にも同じことがいえる。姉夫婦は、感受性豊かなマーサが共同生活を送れるような家族ではない。義兄は物質主義や合理主義を象徴する存在だ。姉とマーサの間には、生い立ちをめぐってお互いにわだかまりがあることが示唆される。もし姉が妹とともに過去と向き合おうとしたなら、状況も変わっただろう。だが彼女は、夫の世界を「普通」や「幸福」と信じ、そこに逃避してしまう。そうなれば、孤立するマーサは二者択一を迫られる。

 ちなみに、ダーキン監督のあるインタビューによれば、主人公の背景は彼の頭のなかでは具体化されていたが、あえて映画には描かなかったという。いずれにしてもマインド・コントロールは、そんな現代人を縛っている価値観や感情を利用して、もうひとつの世界を作り上げている。だからマーサは、せっかく脱走したにもかかわらず、現実を単純化した二元論的な世界に囚われていく。

 そのことを踏まえるなら、冒頭に書いたようなこの映画の編集の効果が持つ意味も変わってくる。現在と過去の境界が曖昧になるということはどういうことか。突き詰めれば、カルトの世界と姉夫婦の世界には違いがないということだ。カルトのリーダーは、マーサの義兄に重なり、姉は女性信者に重なる。つまり、この映画の本当の恐ろしさは、ヘインズの『SAFE』と同じように、ヒロインが二元論的な世界の外部に出られなくなってしまうところにあるのだ。

《参照/引用文献》
『要塞都市LA』マイク・デイヴィス●
村山敏勝・日比野啓訳(青土社、2001年)

(upload:2013/02/22)
 
 
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