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その四つの物語には、重要な共通点がある。どの物語の登場人物も、まず彼らの親が蟲にとり憑かれ、彼らはそれを引き継ぐか、あるいは、その影響を受けている。大友監督は、この親子の絆と蟲の結びつきに着目し、過去と現在を繋ぐ縦軸とギンコの旅という横軸を交差させながら、人とギンコのように境界を生きる者の違いを浮き彫りにしていく。
この映画の最初に描かれる額に角の生えた少女・真火の物語は、一見独立しているように見えるが、実はその縦軸と横軸の起点になっている。真火は、母親を強く慕うがゆえに、蟲を呼び込んでしまう。彼女はただ苦しんでいるのではなく、それを亡くなった母親と共有している。つまり、蟲は絆でもある。しかし、人である彼女はそのままでは生きつづけられない。ギンコは、その蟲の生態を探り、真火が隠し持っていた母親の角を彼女の前で割ってみせることで、絆の呪縛を解き、蟲は離れていく。そして、その瞬間から母親の存在は彼女の記憶となる。
この真火の物語は、ギンコの過去と対置されていることがやがて明らかになる。行商の途上で土砂崩れに遭い、母親を亡くした少年ヨキは、ぬいという女蟲師に拾われ、次第に彼女を母親のように慕うようになる。そんな彼は、ぬいを追うように蟲のなかに身を投じ、記憶を失い、ギンコとなる。そして、この蟲師が、ある出来事をきっかけに取り戻す記憶は、もはやただの記憶ではなく、彼にとり憑き、境界の向こう側へ引きずり込もうとするのだ。
これに対して、横軸となるギンコの旅では、彼とふたりの人物が対置される。ギンコと行動をともにすることになる虹郎は、虹蛇と呼ばれる蟲を追い求めている。なぜなら、彼の父親がその虹蛇にとり憑かれ、まだ幼い頃にそんな父親と虹蛇を目にした彼は、虹蛇が父親と自分の絆になると信じているからだ。しかしもちろん、人である彼は、いつか現実を受け入れなければならなくなる。一方、ギンコと交流のある淡幽は、彼と同じように境界を生きている。蟲にとり憑かれた家に生まれた彼女は、身体を侵蝕しようとする蟲を文字で封じ、記録に変えていく。しかし、ギンコの記憶と同じように、その記録も、彼女がふたつの世界の狭間で均衡を失えば、彼女にとり憑き、死の淵に追いやる。
人は喪失を恐れて、蟲に幻想を見る。境界に生きる者は、喪失と異なる生存原理を受け入れながら、生きる術を見出そうとする。大友監督は、そんな在り方の違いを、独特のスタイルで表現している。まるでモノローグを取り去ったテレンス・マリックの映画のように、そこにドラマがあっても、ただドラマを見せようとするのではなく、背景を含めたひとつの世界をとらえようとしている。そこに大きな力が作用していても、スペクタクルになるのではなく、静謐な空気に包まれている。この映画は、最終的に生と死の境界すら曖昧になっていくような深遠な空間を切り開いているのだ。 |