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そんな彼女は、自分の在り方というものにおぼろげな疑問を感じるようになる。彼女が、外国人女性の部屋でユーラシア大陸の地図を見るとき、そこには日本は存在していない。
それはおそらくは、地図に日本が描かれていないのではなく、彼女にとって日本が存在しないのだ。そのことによって彼女は次第に追いつめられていく。
日本が存在しなければ、外部としての異国も無く、外部によって支えられてきた自分の存在すらも危うくなる。もちろん彼女はここではないどこかに向かうこともできない。
それはいま自分がいる場所があって初めて成立することだからだ。彼女は実際に旅立とうとしても、空港のカウンターで受け付けてはもらえない。
そこで自分がいる場所を見つけだすことを余儀なくされる。
一方ハルは、ミチとは対照的に、日常のなかで個人であることをもてあまし、それが重荷になっているように見える。
三人組の窃盗犯が金庫をこじ開けているのを目撃したとき、彼はわざわざ彼らとすれ違うタイミングをずらし、素知らぬふりをする。ところが彼らは追いかけてきて、「消えろ」という。
そんなときハルは、そうした煩わしさから逃れられるのであれば、本当に消えて、背景に溶け込んでしまうのも悪くないのではないかと密かに思う。
彼には、カフェバーのなかで、見知らぬカップルが険悪なムードになったり、彼の連れの佐竹や健二が絵葉書を売る外国人を追い払おうとすることまでが、
自分に跳ね返り、消えることへと駆り立てられる。そんな彼の気持ちは、ミチとの関係のなかにも現れている。それはたとえば、
ふたりが公園でボールや風船を使って遊んでいる場面だ。ミチは、外国人女性からもらったアオザイを身につけ、どことなく浮き立っているように見えるが、
ハルは、自分が蹴ったり弾いたりするボールの感触に、いやでも自分の存在を感じ、そのことに苛立ちをつのらせていくのだ。
このふたりの立場から浮かび上がってくる願望、閉塞感、喪失感などのもろもろの感情は、現代の日本を生きる人間が多かれ少なかれ共有しているものだろう。
この映画では、そんな彼らの立場が見えてくることによって、ドラマに恋愛映画としての魅力が際立ちはじめる。恋愛映画のひとつの本質は、
すぐそばにいるように見えながら、誰からもどこからも遠く隔てられている個人と個人の関係を描きだしていくことであり、
このドラマはまさにそういう方向へと突き進んでいくからだ。
ハルとミチは、お互いに相手が知らないうちに花粉症の新薬のモニターになっている。彼らが薬を飲むのは同じことだが、その効果に期待しているもの、
つまり、それぞれの胸のうちに秘めている感情はまったく違う。
ハルは消えるためにそれを飲む。花粉が激しく舞う世界のなかで、マスクも付けずにそこにいる彼は、もはや周囲から個人とは見られず、
消えた存在であり、そのことに対してある種の解放感を感じている。しかしもちろん彼が完全に消えてしまうわけではない。結局彼は、
佐竹の誘いで三人組の窃盗犯の仲間になるしかなくなる。彼らはかつてハルに「消えろ」と言ったが、彼らの前から消えるということは、
皮肉にもその集団に帰属することだったということになる。
一方ミチが薬を飲むのは、地図から消えてしまった自分の居場所を見つけだし、外部と自分の存在を取り戻すためだ。
そんな彼女の運命もまたハルと同じく集団と個人の関係を通して語られる。自己の生(性)の可能性を限定した彼女には、
実際に彼女が存在する場所が見えてくるが、それとともに彼女の前に現れるのは、サッカーのサポーターやファシストの集団だ。
彼らは、いわば外部に対して彼女の願望とは逆方向の力で結束する集団であり、それゆえに彼女は翻弄され、絶望を味わう。
ハルはそんな彼女を救おうとするが、彼らは新薬のケースと同じ黄色が象徴的な扉で隔てられ、別れ別れになる。
この黄色い扉を含めて、これまで彼らを隔ててきた境界は、この映画の終盤のドラマで、郵便局のカウンターに集約される。
そして、越えることのできない境界をめぐって変化してきた彼らの関係を踏まえてみるなら、そのドラマは非常に興味深く思えることだろう。
覆面の二人組が郵便局を襲撃する。騒ぎに気づいたミチは、窓口の目隠しを開き、そこに顔を入れようとした覆面男を力まかせにカウンターのなかに引きずり込み、覆面を剥がす。
それぞれの姿勢で個人であろうとしてきたために遠く隔てられたハルとミチは、ここでその境界を越えることになる。
ミチは、彼女にとっての異国からハルが現れることで外部の呪縛を解かれ、同時に、
消えているハルをそのまま受け入れてしまうことによって、彼の呪縛もまた意味を失う。
そして、彼らが外部も内部もなくただそこにあることに、時代を越える愛のかたちが見えてくるのである。 |