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そうなると、スティーヴンがヴィックの店に導かれるのは、運命というべきものだったように思えてくる。彼は、運命と向き合い、答を出さなければならないのだ。この映画のインスピレーションの源であるジョイスの『ユリシーズ』は、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしているが、この映画も、スティーヴンが運命と向き合うことによって、神話的な物語になっていく。筆者の脳裏をよぎったのは、『オイディプス王』の物語だった。オイディプスは、アポロンの神託という運命から逃れることができず、父親を殺し、母親を妻にする。
この映画は、メアリーとスティーヴンの視点を巧みに結びつけることによって、『オイディプス王』に通じる物語を演出する。われわれは、メアリーの視点を通してライアンを見ているので、彼はレオポルドの父親である。一方、スティーヴンは、ヴィックの店で避けられない運命に引き込まれていく。そんな視点が重なり合うことによって、この映画からは、父殺しという運命を背負い、それを乗り越えようとする人間の物語が浮かび上がる。
彼は運命をどう乗り越えるのか。そこで注目しなければならないのが、"物語"だ。レオポルドの人生は、彼が生まれる前に始まった。それは具体的には、メアリーがライアンの関係を持ったときだ。しかしこの映画は、それを異なる次元からとらえてもいる。スティーヴンが「ここからが僕の物語」と語ったあとにつづくのは、夫の浮気を確信したメアリーが、書棚に並ぶ本を乱暴に投げ捨てる場面である。教壇に立つ夢を持ち、夫と物語を共有してきた彼女は、その瞬間に物語を失ってしまうのだ。
成長し、本に熱中するようになったレオポルドは、母親が密かにベンの日記を読んでいたことに気づく。しかし彼女は、その物語を息子と共有することができない。罪悪感に苛まれるからだ。それでも彼は、孤独に物語を育もうとするのだが、ふたりに起こる悲劇がとどめを刺す。法廷で18歳のスティーヴンは、「僕が彼(ライアン)を殺し、母親が僕を殺した」と語るが、母親が殺したのは、彼のなかの物語といってよいだろう。そしてこの映画は、スティーヴンが、運命を乗り越える力をもたらす物語を取り戻す過程を描いていく。彼の背後に浮かび上がる壁に貼られた原稿は、我が家の書棚に対応しているのだ。
それでは、レオポルドは、単にスティーヴンの過去の姿なのだろうか。筆者はそうは思わない。『ユリシーズ』では、スティーヴンが若者で、レオポルドが父親的な存在であり、この映画では、彼らの立場が逆になっているように見える。しかし、スティーヴンとは、自分の名前が背負った運命を呪うがゆえに、スティーヴンになろうとするレオポルドという人間である。一方、レオポルド少年も、単に回想のなかに存在しているのではなく、スティーヴンになりたい人間が綴る物語のなかを生き、文通を通して父親的な存在を見出し、変わろうとしている。
そして、映画の最後でそんなよじれた関係が鮮やかに修正される。キャロラインを救い、父殺しの運命を免れたスティーヴンは、ホラスに殺されかかるが、彼の物語に揺り動かされたヴィックに救われる。運命を乗り越え、ヴィックという父親を再生した彼は、過去の呪縛を解かれ、もはやスティーヴンである必要がなくなる。しかし、レオポルドという名前を受け入れるためには、もうひとつの儀式が必要となる。文通を通して物語を取り戻した彼は、今度は父親として、最後に見出した答を少年に伝えなければならない。かつて父親のベンが神と形容したミシシッピ川のほとりでふたりが出会い、ひとつになるとき、レオポルドは完全な再生を果たすのだ。
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