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この湾岸地域では、かつて夢見られた未来は完全に幻影と化している。その土地は、過去と未来の狭間で宙吊りとなり、醜悪な姿を晒している。そんな風景は、人々の内面を象徴してもいる。吉岡は、「このへん全部が、もとの海に戻る、みんな案外それを望んでいるのかもしれない」と語る。加害者たちは、「全部をなしにしようと思った」と語る。彼らが、「全部をなしにする」ということは、未来を失った土地を自分たちの都合だけで勝手に海に戻すことを意味する。だから、被害者たちは海水に押し込まれ、溺死しなければならないのだ。
では、この手口と幽霊はどのように結びつくのか。幽霊は、全部をなしにしようとする人間を罰するために現れる。この映画の冒頭では、まず殺人が行われ、それに対する怒りが噴出するかのように地震が起こる。そして、幽霊は、地震や地面のわずかな振動とともに現れるようになる。彼女は、過去の出来事に恨みを持つ幽霊であるだけではなく、土地の歴史を守護する地霊でもある。この映画では、幽霊を見るのは、過去に彼女と接点があった人間に限られているはずだった。しかし、映画の終盤には、個人の恨みを超えた出来事が起こる。幽霊は明らかに地霊となり、その怒りはどこまでも広がっていく。
『叫』は、『CURE』や『回路』の世界を継承し、その先に踏み出していく。この映画には、『ドッペルゲンガー』と『LOFT ロフト』を経なければ、切り開くことができなかったであろうヴィジョンがある。『ドッペルゲンガー』では、主人公がふたつに分裂する。『LOFT』の冒頭には、新作を書こうとする主人公とそれを拒絶するように泥を吐く彼女というふたりの主人公が存在するように見える。しかもこの映画では、二台のカメラでほとんど同じ位置から同じものを撮り、微妙に異なる映像がランダムに切り替わる。
そして『叫』にも、ふたりの吉岡がいる。冒頭の殺人と地震による液状化は、実際の出来事であるだけでなく、吉岡の夢=無意識の世界を意味してもいる。このドラマでは、すべてを連続殺人に封じ込めようとする刑事の吉岡と、時代から取り残された団地に暮らし、失われた記憶をたぐり寄せようとする吉岡が、激しくせめぎ合い、最後にひとつになる。彼が抱えるバッグのなかで、ふたつのものがひとつになることは、まさにそれを象徴している。
『ドッペルゲンガー』の主人公は、ひとつになることによって解放される。『LOFT』の主人公には、深い喪失感が残る。『叫』の主人公は、大変な重荷を背負う。それは、世界の罪というべきなのかもしれない。黒沢清は、未来にこだわり、しばしばそれを崩壊のなかに見てきた。『回路』では、幽霊の存在はひたすら生と死の境界の崩壊に依存していた。だから、主人公たちは、とにかく生き延びるために旅立つ。『叫』の幽霊は、怒れる地霊となる。そして、吉岡は、地霊を受け入れ、罪を償うために旅立つのだ。 |