|
「セレブレーション」は、デンマークの4人の監督からなる集団"ドグマ95"による興味深い試みから生まれた作品だ。彼らは映画を救済するための十戒を作り、それに則って映画を作る。そこでは、撮影は手持ちカメラに限られ、
セットも背景にある以外の音楽も人工的な照明も表面的なアクションもジャンルも時間的、空間的な乖離も認められない。
そんな試みの先陣を切るこの作品は、映画にあえて製作上の制約を課すことが映画をいかに解放するのかを物語っている。これはもちろん制約が映画を作るという意味ではない。それだけなら、制約は灯台下暗しの新鮮さを引きだす鋳型にすぎない。
この試みが魅力的なのは、これだけの制約があっても個々の監督の十戒と映画に対する解釈は一様ではなく、彼らがそれぞれに作家性やスタイルというものからもう一歩踏みだしたところで表現の本質を見極めようとするからだ。
たとえば、この十戒から演劇的な要素を徹底的に排除し、純粋な映画表現を追求するロベール・ブレッソンのような禁欲的な作業を連想することは容易だ。しかし、このヴィンターベアの姿勢はそれとはまったく違う。彼は制約を最大限に活用すべく緻密な設定とシナリオを作り、
複雑な群像劇を紡ぎだす。そこには69年生まれの監督ならではの野心を見ることができるが、そんなことを考えるのは映画を振り返る段階のことで、観客は映画が醸しだす濃密な空気に引き込まれてしまうに違いない。
主人公は、父親の還暦を祝う宴の席で醜悪で苦痛に満ちた家族の秘められた過去を暴露する。その行為そのものは、座が一瞬ざわめく程度の波紋を投げかけるにすぎない。しかし、この集団の人間関係のなかで、それぞれに特別な想いをうちに秘めている主人公の姉や弟、
その恋人や妻、メイドや料理人たちの感情がこの主人公の行為に呼応し、開放的な宴の席は状況的にも心理的にも閉塞的な空間へと変貌していく。招待客たちはこの閉塞感から逃れるために、黒人である主人公の姉の恋人をスケープゴートにし、酔いにまかせて奇行を繰り広げるが、
絡み合う感情は最後まで真実を求めつづけ、還暦の祝宴は別な儀式へと姿を変える。
夜が更け、蝋燭の炎のなかで人物の輪郭すらぼやけていくとき、主人公は神秘的な空間のなかで自殺した妹との邂逅を果たし、彼を支配した父親の存在を乗り越え、愛を受け入れていく。彼にとってそれは失われた自己を呼び覚ます重要な通過儀礼となるのだ。
|