|
この映画の撮影を手がけたのは、トマス・ヴィンターベアのドグマ#1『セレブレーション』のカメラマン、アンソニー・ドット・マントル。ヴィンターベアはこの作品でビデオ・カメラを併用した利点について、「俳優がカメラの存在を忘れて演技できた」と語っていた。デジタル・ビデオで撮影された『ジュリアン』では、コリンの発案で小型の監視カメラが多用され、そうした利点が突き詰められている。
さらにデジタル画像を複雑なプロセスでフィルムに落とすことによって、対象を極限までデフォルメし、この家族の世界から聖なるイメージをあぶりだしている。
コリンの作品は、デジタル、リミックス、サンプリングといった言葉で象徴される世代の感性としてとらえられることが多いが、彼の本質はそうした世代とは一線を画している。筆者には、コリンが6歳から高校卒業までテネシー州ナッシュヴィルで過ごしたことが、作品に大きな影響を及ぼしているように思う。『ガンモ』は、設定はアメリカ中部だったが、
実際には彼が育ったナッシュヴィル郊外のホワイト・トラッシュの町で撮影されていた。『ジュリアン』のロケ地は、ニューヨークやニュージャージーだが、映画には南部的な雰囲気がそこはかとなく漂っている。
コリンは好きな作家として南部の女性作家フラナリー・オコナーの名前を上げている。南部の土壌から独自の暴力的で畸形的、かつ宗教的な世界を作りあげたオコナーは、「作家と表現」という小論文のなかで、次のように書いている。
「われわれ作家の進む方向は、伝統的小説よりも詩のほうになるに違いない。このような作家にとっての問題は、対象を破壊せずにどこまでデフォルメできるか、その限度を知ることだろう。破壊せずにすますためには、彼は、作品の生命の源泉に達するまで自分のなかに深く降りていかなければなるまい。この内面への下降は、同時に作家の属する土地への下降でもある。
馴れ親しんだものが形成する闇の層を突き抜けて、福音書に出てくる開眼した盲人のように、人間が歩く木に見えてくる所まで降りていくのである。これが預言者的視覚のはじまりなのだ」
『ジュリアン』という映画は、デジタル・ビデオを駆使することによって、この言葉をこれ以上ないほど見事に実践しているように思う。この映画には、そんな人間の内面を深く掘り下げる感覚と宗教的な覚醒があるのである。
|