ジュリアン(ドグマ#6)
Julien : Donkey Boy (Dogme#6)  Julien Donkey-Boy
(1999) on IMDb


1999年/アメリカ/カラー/101分/スタンダード/ドルビーSR
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(初出:「キネマ旬報」2000年12月上旬号)

 

 

内面への下降と宗教的な覚醒

 

 70年代半ばに強烈な竜巻に襲われたオハイオ州の町ジーニアを舞台に、疲弊したコミュニティの日常を描いたハーモニー・コリンの初監督作品『ガンモ』。この映画の冒頭では、犬が屋根のテレビ・アンテナに突き刺さっている光景が映しだされる。この光景は、このコミュニティが、社会や人間を均質化し、表層化するメディアから取り残された世界であることを暗示している。

 コリンはこの映画のなかに、映画やテレビといった映像メディアの発達によって隅に押しやられ、消え去ることになった生身の身体を武器とする見世物のイメージを散りばめている。コリン自身がゲイの若者に扮して黒人の小人を誘惑する場面は、ブラウニングの『フリークス』に描かれるサイド・ショーの世界を連想させる。自転車でうろつく二人組の少年たちのやりとりには、ヴォードヴィルの芸が盛り込まれ、 その片方の少年の母親は、自分の家の地下室で、タップダンサーだった亡夫が愛用していた靴を取りだし、異様な姿でタップを踊ろうとする。

 『ジュリアン』では、主人公ジュリアンの父親と、両手がないためにすべてを足でこなしてしまう男が、カードに興じる場面に、「テレビと現実は違う」という台詞がある。そんなことは当たり前だと誰もが思うかもしれないが、コリンほどその事実を純粋に受け止めている作家も少ないのではないかと思う。

 たとえば、この映画では、盲目の少女スケーターの姿が印象に残る。 なぜなら彼女は、他者の視線によって作られているのではなく、純粋に内面からスケーターであろうとする。それが生身の身体に強度を与えているのである。

 『ジュリアン』の登場人物たちは、そんなふうに自分の身体で生き、自己のオブセッションに忠実に映像のなかに存在している。精神分裂病である主人公ジュリアンは、盲学校で目の見えない生徒たちに献身的な姿勢を見せ、バプティスト教会の礼拝で感動の涙を流しながら、同時に、突然、子供に襲いかかったり、ナチに傾倒する攻撃的な面を持ち合わせている。

  また亡き母親を慕うあまり、彼女の死を完全に受け入れることができない。そのため、間もなく未婚の母になろうとする姉が、時に母親を演じている。彼らの父親は、レスラーを目指すジュリアンの弟を異様な執念で鍛え上げる一方で、母親の面影があるこの息子に彼女の服を着せて、ダンスを踊るという欲望を抑えることができない。

 この映画の撮影を手がけたのは、トマス・ヴィンターベアのドグマ#1『セレブレーション』のカメラマン、アンソニー・ドット・マントル。ヴィンターベアはこの作品でビデオ・カメラを併用した利点について、「俳優がカメラの存在を忘れて演技できた」と語っていた。デジタル・ビデオで撮影された『ジュリアン』では、コリンの発案で小型の監視カメラが多用され、そうした利点が突き詰められている。 さらにデジタル画像を複雑なプロセスでフィルムに落とすことによって、対象を極限までデフォルメし、この家族の世界から聖なるイメージをあぶりだしている。


◆スタッフ◆

監督/脚本
ハーモニー・コリン
Harmony Korine
製作 ケイリー・ウッズ/スコット・マコーレー/ロビン・オハラ
Cary Woods/Scott Macaulay/Robin O'hara
編集 ヴァルディス・オスカスドッチア
Valdis Oskarsdottir
撮影 アンソニー・ドット・マントル
Anthony Dod Mantle
音楽効果 ブライアン・ミクシス
Brian Miksis

◆キャスト◆

ジュリアン
ユエン・ブレンナー
Ewen Brenner
ヴェルナー・ヘルツォーク
Werner Herzog
パール クロエ・セヴィニー
Chloe Sevigny
クリス エヴァン・ニューマン
Evan Neumann
(配給:東北新社)
 
 


 コリンの作品は、デジタル、リミックス、サンプリングといった言葉で象徴される世代の感性としてとらえられることが多いが、彼の本質はそうした世代とは一線を画している。筆者には、コリンが6歳から高校卒業までテネシー州ナッシュヴィルで過ごしたことが、作品に大きな影響を及ぼしているように思う。『ガンモ』は、設定はアメリカ中部だったが、 実際には彼が育ったナッシュヴィル郊外のホワイト・トラッシュの町で撮影されていた。『ジュリアン』のロケ地は、ニューヨークやニュージャージーだが、映画には南部的な雰囲気がそこはかとなく漂っている。

 コリンは好きな作家として南部の女性作家フラナリー・オコナーの名前を上げている。南部の土壌から独自の暴力的で畸形的、かつ宗教的な世界を作りあげたオコナーは、「作家と表現」という小論文のなかで、次のように書いている。

「われわれ作家の進む方向は、伝統的小説よりも詩のほうになるに違いない。このような作家にとっての問題は、対象を破壊せずにどこまでデフォルメできるか、その限度を知ることだろう。破壊せずにすますためには、彼は、作品の生命の源泉に達するまで自分のなかに深く降りていかなければなるまい。この内面への下降は、同時に作家の属する土地への下降でもある。 馴れ親しんだものが形成する闇の層を突き抜けて、福音書に出てくる開眼した盲人のように、人間が歩く木に見えてくる所まで降りていくのである。これが預言者的視覚のはじまりなのだ」

 『ジュリアン』という映画は、デジタル・ビデオを駆使することによって、この言葉をこれ以上ないほど見事に実践しているように思う。この映画には、そんな人間の内面を深く掘り下げる感覚と宗教的な覚醒があるのである。


(upload:2001/03/21)
 
 

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