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筆者はこの結末を見て、社会学者W・H・ホワイトが50年代の郊外化を検証し、個人主義の重要性を再認識しようとする「組織のなかの人間」の結びの言葉を思いだした。「組織によって提供される精神の平和は、一つの屈服であり、それがどんなに恩恵的に提供されようと、屈服でありことに変わりはないのである。それが問題なのだ」。この言葉は、先に引用したニックの言葉と共鳴し、彼の理念がより鮮明になることだろう。
ニックにとって第2作となる『シーズ・ソー・ラヴリー』は、そんな彼の理念とそれに深い信頼をよせる俳優たちなしには成り立たない映画であると思う。これは、ジョンが映画化を果たせずに残した脚本をニックが映画化した作品で、その脚本にはジョンの世界が非常に大胆なかたちで凝縮されている。物語はふたつのパートからなり、その双方にジョンの対極にある世界が反映され、最後に登場人物たちを通してふたつの世界が交錯することになるのだ。
前半では、都会の片隅で愛だけを唯一の存在理由として生きるエディとモーリーンという若いカップルのドラマが描かれる。彼らは激しく愛し合うがゆえに孤独に苛まれ、酒に溺れ、追いつめられていく。不安定な世界のなかで妄想にとらわれるエディは、傷害事件を引き起こし精神病院に収容されてしまう。後半はその10年後、モーリーンは新しい夫と3人の子供たちと閑静な郊外住宅で平穏な家庭生活を送っている。しかしエディが病院を退院し、モーリーンを取り戻しにそこに現われ、彼女は人生の岐路に立たされる。
この映画化にあたってニックは脚本にほとんど手を加えていないという。そういう意味ではジョンの世界が尊重されていることになるが、映画は紛れもなくニックの世界である。
この脚本の野心的なところは、前半と後半がそれぞれわずか3日と1日の物語で、どちらのカップルにしても出会いなどにまつわる背景説明は一切排除され、影に満ちた都会と明るい郊外住宅地、無防備な愛の絆と理想に縁取られた家族の絆というきわめて対照的な状況から浮かび上がって来るものだけにすべてが委ねられていることだ。これはもちろん勝手な想像ではあるが、もしジョンが映画化していたとしたら、彼はそれぞれの状況で追いつめられる登場人物たちの内面を徹底して掘り下げ、激しい感情のうねりをひきだし、その相克を浮き彫りにしていたことだろう。
しかしながらニックは、そのような困難な現実を驚くほどあっさりと受け入れてしまう。特に終盤、主人公たちをあたかもドラマの束縛から解放するかのように、小気味よいほど直截な演出に徹しながら、そこにどこまでも自分であろうとする意思を反映する。その素晴らしさを言葉にするのは容易ではないが、しいていえば、重くも軽くもなく、ただ強いということだ。
ニックの2本の映画の結末にはどちらも希望があるが、それは決して甘いものではない。ある意味では残酷とすらいえる。そんな残酷さを引き受けた上で、なおも当然のことのように前進することしか知らない彼の透徹した理念に、筆者は深い共感を覚えるのだ。
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