ジョニー・マッド・ドッグ
Johnny Mad Dog  Johnny Mad Dog
(2008) on IMDb


2007年/フランス=ベルギー=リベリア/カラー/93分/シネマスコープ/ドルビーSRD
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(初出:「キネマ旬報」2010年4月下旬号、若干の加筆)

 

 

ホモソーシャルな連帯関係という幻想
家族を奪われる痛みとほとばしる憎しみ

 

■■効率的に戦力を確保するために利用される子供たち■■

 フランスの新鋭ジャン=ステファーヌ・ソヴェール監督の長編劇映画デビュー作『ジョニー・マッド・ドッグ』では、内戦で混乱するアフリカの国を舞台に、暴虐の限りを尽くす少年兵の姿が容赦なく描き出される。

 20世紀の終盤から顕著になった子供の兵士の存在は、世界の動きと深い関わりを持ち、私たちにとっても決して他人事とはいえない。政治学者のP・W・シンガーはその著書『子ども兵の戦争』のなかで、子供が兵士になる三つの原因を挙げている。

 まず、グローバリゼーションによって社会が崩壊、あるいは不安定化し、世代の断絶が広がり、子供の位置づけが混乱をきたしていること。次に、兵器が技術的に簡素化され、子供でも扱えるようになったこと。そして、政治や宗教ではなく私利私欲を動機とする極めて残虐で違法性のある新手の紛争が増加したことだ。その結果として、最小限の投資で効率的に戦力を確保するために、子供が利用される。そんな背景があることを踏まえておくべきだろう。

■■舞台をコンゴからリベリアに変え、元少年兵たちを起用■■

 『ジョニー・マッド・ドッグ』の原作は、コンゴ出身の作家エマニュエル・ドンガラが2002年に発表した同名小説だ。ドンガラのコンゴでの体験をもとに書かれたこの小説では、残虐な少年兵に変貌を遂げたジョニーと家族を守ろうとする少女ラオコレの視点を交錯させながら、内戦の世界が描き出されていく。映画はそんな構成を引き継ぎつつ、独自の世界を切り開いていく。そこには、これまでドキュメンタリーの作家として活動してきたソヴェール監督ならではのアプローチがある。

 彼は、90年代から二度に渡る内戦をくぐり抜け、今もその傷跡が生々しく残るリベリアを舞台に選び、主要な登場人物に15人の元少年兵を起用した。アメリカの黒人解放奴隷に植民地化されるという特異な歴史を持つリベリアは、少年兵が前線に立つ紛争で世界的な注目を集めた。

 たとえば、コートジボワール出身の作家アマドゥ・クルマは、リベリアとシエラレオネの内戦を体験した元少年兵の告白という形で綴られる『アラーの神にもいわれはない』を発表した。先述したシンガーの著書には、以下のような記述がある。「国連の試算によれば、リベリア紛争では約二万人の子どもたちが戦闘員となり、さまざまな勢力の戦闘要因の最大七〇パーセントを占めていた

 ソヴェール監督は、そんなリベリアを舞台に元少年兵を起用することによって、より深く現実に根ざした世界を切り開こうとする。だから原作の構成を引き継いではいるものの、その話術はまったく異なる。原作では、頻繁に挿入される主人公の回想によって、様々な背景が見えてくる。これに対して映画では、背景を削ぎ落とし、主人公と彼らを取り巻く現実が、ドキュメンタリーのように生々しく描き出されていく。

■■ホモソーシャルな連帯関係と家族の絆を対置■■

 15歳の少年兵ジョニーと13歳の少女ラオコレは、どちらも戦争の犠牲者だが、対極ともいえる生き方を強いられる。ソヴェール監督は、“ホモソーシャルな連帯関係”と“家族の絆”という二つの要素を対置することによって、その違いを浮き彫りにしていく。ホモソーシャルな連帯とは、同性間の社会的な連帯を意味する。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ジャン=ステファーヌ・ソヴェール
Jean-Stephane Sauvaire
原作 エマニュエル・ドンガラ
Emmanuel Dongala
製作 マチュー・カソヴィッツ、ブノワ・ジョベール
Mathieu Kassovitz, Benoit Jaubert
撮影 マルク・コナンス
Marc Koninckx
編集 ステファーヌ・エルマジャン
Stephane Elmadjian
音楽 ジャクソン・テネシー・フルジョ
Jackson Tennesse Fougeaud
 
◆キャスト◆
 
ジョニー・マッド・ドッグ   クリストフ・ミニー
Christophe Minie
ラオコレ デイジー・ヴィクトリア・ヴァンディ
Daisy Victoria Vandy
ノーグッド・アドバイス ダグベス・トゥウェ
Dagbeth Tweh
バタフライ モハメッド・セセイ
Mohammed Sesay
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(配給:インター・フィルム)
 
 
 

 ジョニーのような少年兵の背後にいるのは、効率的に戦力を確保しようとする大人の指揮官だが、一方的な強制だけで強固な結束が生まれるわけではない。少年兵たちは、一人前の男になった幻想に溺れ、幻想を守るためにホモソーシャルな連帯を作り上げていく。だが、社会的な連帯関係は本来なら大人の間で結ばれるものであり、彼らのそれは表層的なものに過ぎない。だから彼らは、無差別に人を殺し、女をレイプすることで、男らしさを誇示しようとする一方で、好奇心からウェディングドレスを身につけたり、奪った豚に特別な愛着を示すなどの幼さを露呈する。

 ラオコレは、紛争で足をなくし一人では歩けない父親と、8歳の弟と暮らしている。そんな彼女は、ジョニーの部隊の侵攻によって混乱に陥っていく町のなかで、家族を守るために奔走する。この映画の導入部では、民家を襲ったジョニーの部隊が、子供を脅して家族を殺させ、仲間に引き入れるというエピソードが描かれ、そこからホモソーシャルな連帯関係と家族の絆が対置されていく。また、原作では、ラオコレは、動けない母親と弟と暮らしているが、映がではその母親を父親に変更することで、ラオコレの女性としての立場がより際立っている。

 ジョニーとラオコレは激しい混乱のなかで異なる変化を遂げる。それぞれの世界では、人の命の重みがまったく違う。ジョニーは、ホモソーシャルな連帯や武器、ドラッグの力によって、大人のように振る舞うが、その通過儀礼は幻想に過ぎない。ラオコレは、母親や父親に等しい責任を背負い、戦場の恐怖と向き合い、喪失の痛みに耐え、大人になっていく。そんなコントラストが、彼らが対峙するラストを印象深いものにする。

 そこで筆者は、この映画の製作を手がけたマチュー・カソヴィッツの『憎しみ』を想起した。『憎しみ』のラストでは、いつも憎しみを露にしていきがっていたユダヤ系のヴィンスと、いつも冷静でヴィンスを押しとどめていたアフリカ系のユベールの立場が逆転し、本当の憎しみがほとばしることになるからだ。

■■元少年兵たちのトラウマとセラピーとしての演技■■

 その一方で、この映画に異なる意味を見出すこともできる。先述したアマドゥ・クルマの小説『アラーの神にもいわれはない』の衝撃は、語り手の元少年兵が、冒頭でたくさん人を殺したと宣言しながら、その後は周囲の出来事を細かく語るばかりで、自分の行為には触れないところにある。それは強烈なトラウマを示唆している。

 ソヴェール監督は、この映画に出演した元少年兵について、プレスのなかで以下のように語っている。

自分たちが生きてきた戦争を、いろんなシーンで再現し、演技していくことで、自分たちが何をしてきたのか、どういうことをしてしまったのかを理解できるようになりました。自分のしたことを認識することで、受けた心の傷を外に出していくような役割を果たして、彼らは少しずつ成長していったのです

 そういう意味ではこの映画は、ある種のセラピーの過程を記録したドキュメンタリーと見ることもできるだろう。

《参照/引用文献》
『子ども兵の戦争』 P・W・シンガー●
小林由香利訳(NHK出版、2006年)
“Johnny Mad Dog” by Emmanuel Dongala●
(Picador, 2002)
『アラーの神にもいわれはない』 アマドゥ・クルマ●
真島一郎訳(人文書院、2003年)

(upload:2010/08/10)
 
 
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