4月の涙
Kasky / Tears of April  Kasky
(2008) on IMDb


2009年/フィンランド=ドイツ=ギリシャ/カラー/114分/フィンランド語・ドイツ語・ロシア語/シネマスコープ/ドルビーSRD
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(初出:月刊「宝島」2011年6月号、加筆)

 

 

フィンランドの悲劇の歴史を
環境哲学の視点から読み直す

 

 現在のフィンランド映画界を代表する監督といわれるアク・ロウヒミエス。『4月の涙』(09)の題材になっているのは、同じ国民が敵味方となって戦ったフィンランド内戦だ。内戦末期の1918年、白衛隊の准士官アーロと捕虜となった赤衛隊の女性兵ミーナが出会い、二人の間で愛と信念がせめぎ合う。

 そんな設定から筆者はありがちな男女の悲劇を想像していたのだが、実際に作品を観たらまったく違っていて正直驚いた。この映画では、内戦の物語が、「人間中心主義」と人間の位置を自然のなかに据える「環境哲学」という現代的な視点から読み直されている。

 白衛隊に捕えられた女性兵たちは、乱暴され、逃亡兵として処刑されていく。アーロは、そんな指令を無視した処刑に抗議し、かろうじて生き延びたミーナを公正な裁判にかけるため、作家で人文主義者のエーミル判事がいる裁判所に護送しようとする。

ところが、海上を移送中に彼女が抵抗したためにボートが沈み、二人は孤島に漂着する。このあたりからこの映画の独自の視点が目立つようになる。アーロとミーナの関係は変化するが、何を見るかによってその意味が違ってくる。

人間だけを見ていれば、二人が寝たのかどうかに関心が向く。後にエーミル判事も「寝たのか」と詰め寄る。しかし、二人を取り巻く環境が目に入れば、彼らを結びつけるのが、まずなによりも苛酷な自然のなかで生き延びようとすることであるのがわかる。

 ロウヒミエス監督はどうも直感でそうした表現をたぐり寄せるらしい。プレスのインタビューではこのように語っている。

僕は直感で動くことが多い人間でね。キスをしたあとのシーンを撮影しなかったわけではないんだ。だけど、映画ではカットした。その方がいいと思ったんだ。彼らが寝たかどうかは想像に任せるよ(笑)。映画をご覧になる方が好きに解釈してくれればいい。寝たかどうかというよりも、あの二人を結びつける何か……もっと深いものが彼らの間に生まれたということがあのシーンで伝わればいいと思ったんだ

 筆者にはこの孤島の場面では、内戦とは次元が異なる世界、「二人を結びつける何か」がしっかりと描き出されていると思う。この場面を見て、これがありがちな男女の悲劇とはまったく違う映画であることを確信した。

 そして、この物語の鍵を握るのがエーミル判事だ。内戦という修羅場で教養に飢えていた彼は、ゲーテの詩を諳んじるアーロを歓迎する。だが、内戦は彼らを対極の存在に変えている。

 エーミルとアーロを結びつけるのがゲーテの世界であることも筆者には興味深く思えた。ゲーテは現代の環境哲学と必ずしも無関係ではないからだ。クラウス・マイヤー=アービッヒは『自然との和解への道』の冒頭で、ゲーテの「共世界」という概念について以下のように書いている。


◆スタッフ◆
 
監督   アク・ロウヒミエス
Aku Louhimies
脚本 ヤリ・ランタラ
Jari Olavi Rantala
原作 レーナ・ランデル
Leena Lander
撮影 ラウノ・ロンカイネン
Rauno Ronkainen
編集 ベンヤミン・メルケル
Bemjamin Mercer
音楽 キルカ・サイニオ、ペッシ・レヴァント
Kirka Sainio, Pessi Levanto
 
◆キャスト◆
 
アーロ・ハルユラ   サムリ・ヴァウラモ
Samuli Vauramo
ミーナ・マリーン ピヒラ・ヴィータラ
Pihla Viitala
エーミル・ハレンベルグ エーロ・アホ
Eero Aho
エイノ エーメリ・ロウヒミエス
Eemeli Louhimies
マルッタ ミーナ・マーソラ
Miina Maasola
ベーア・ハレンベルグ リーナ・メイドレ
Riina Maidre
コンスタ スレヴィ・ペルトラ
Sulevi Peltola
パーソネン オスカル・ポウスティ
Oskar Poysti
陸軍少佐 ミッコ・コウキ
Mikko Kouki
陸軍中尉 ヤンネ・ヴィルタネン
Janne Virtanen
-
(配給:アルシネテラン)
 

ゲーテはこの「共世界」という表現で、人間だけが「共[同じ]人間」(Mitmenschen)としてわれわれの共世界でありうると考えていたのではなかった。しかし、二〇世紀になって日常言語的にも哲学的にも(レーヴィット、ハイデガー)、共世界を人間だけの世界に狭めることになってしまった。他の言語においても、人間の外にある自然はわれわれのたんなる環境(Umwelt, environment)であるとみなされているように、人間以外の世界は経済学者たちが言うような一揃いの資源として、ただわれわれの回りにわれわれのために現存しているのである。こうした考え方こそまさしく人間中心主義的世界像の形態であるのだが、この立場こそが東西の工業国の自然危機を惹きおこしたのであった。人間だけがわれわれの共世界でありうるのではなく、他の生物そしていわゆる無機的自然ですらわれわれの共世界でありうるということを思い出させるために、私はゲーテの概念を使って世界を自然的共世界へ拡張したのである

 では、エーミルとアーロはどのように対極の存在になっているのか。内戦のなかで自分を見失い、堕落したエーミルは、捕虜を「動物」とみなし、ほとんど無差別に処刑している。これに対してアーロの前には一匹の野生の狼が現れ、彼は動物の側に、あるいは自然と共生する存在として位置づけられる。

 ちなみに、ロウヒミエス監督はこの狼についても、明確な根拠があるというよりは、ある種の直感で登場させたような印象を与える。プレスではこのように語っている。

狼はフィンランドでは崇高な存在なのかもしれないと僕は思ったりもした。だから、兵士が出会うことに意味があると。彼がその後自分の意志を曲げないことへの象徴なのかもしれないとも感じました。正直に言って、なぜ自分でもあそこで狼を登場させたのか、よく分からないんだ。ただ、フィンランドには実際に狼がいるし、それに狼は家族思いというか、子供の世話をきちんとする動物でもある。思うに、この映画の中の狼は善を象徴しているのだろう。そう思ってもらえると嬉しいし、そう思ってもらっていいと思う。狼は群れで行動する動物で、基本的に一匹では動かない。その狼と兵士が出会うわけだからね。それに子供に献身的だという点では、この映画に必要だったかもしれない。狼の子供もちょうど4月に生まれるんだ

 もし、捕虜を動物とみなし、処刑することだけを批判的にとらえていれば、平凡な物語になってしまったはずだが、明らかにこの映画は違う。エーミルは海鳥を銃で撃ち落し、死骸をもてあそぶ。そのときアーロは、動物にも生きる権利があると主張する。

 人間が他の人間に加える仕打ちと、人間が動物や自然に加える仕打ちを同じことと考える。この映画から浮かび上がる自然の風景や動物は、内戦や許されざる愛を引き立てるための単なる背景ではない。

《参照/引用文献》
『自然との和解への道』クラウス・マイヤー=アービッヒ●
山内広隆訳(みすず書房、2005年)

(upload:2011/10/18)
 
 
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