シリアスマン
A Serious Man   A Serious Man
(2009) on IMDb


2009年/アメリカ/カラー/106分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:『シリアスマン』劇場用パンフレット)

 

 

不運を嘆き、考え込むのではなく、
笑いに転化して前に進む

 

 コーエン兄弟の『シリアスマン』は、これまでの彼らの作品と違った印象を与えるかもしれない。それは、ユダヤ系の家族やコミュニティのドラマにこの兄弟のバックグラウンドが反映されているからだ。しかし、ユダヤの文化や慣習を理解していなければ楽しめないということはない。この映画は、ひとつのことを頭に入れておけば、たっぷり楽しむことができる。

 たとえば、ユダヤ文学には、シュレミール(schlemiel)やシュリマゼル(schlemazel)というように表現される人物像が頻繁に登場する。それらは、なにをやっても裏目に出るドジな人物や災いばかりが降りかかるどうにもついてない人物を意味する。コーエン兄弟にとってこうした人物像は身近なものであるはずだ。

 『シリアスマン』を観ていて筆者がすぐに思い出したのは、作家としても活躍するイーサン・コーエンが1998年に発表した短編集『エデンの門』のことだった。そこには、ボクサーや探偵、ギャングから平凡な家族まで様々な主人公が登場してくるが、彼らの人物像はだいたいシュレミールやシュリマゼルに当てはめることができる。

 なかには『シリアスマン』にそっくりな設定の短編もある。たとえば、「少年時代」は、ミネアポリスのサバービア(郊外住宅地)で家族と暮らし、ヘブライ語学校に通う少年の視点で物語が綴られる。彼には姉がいて、彼女のことがこのように描写されている。

思春期に入って以来、この六年後に家を出て大学へ入るまで、ぼくは姉の姿をほとんどみかけたことがなかった。姉はその時期を、風呂場で髪を洗って過ごしていた。ごくたまに食事や、電話をかけるために姿を現すことがあった、頭にタオルを巻いて

 それから家族に翻弄される父親の物語もある。デイビーとバートという8歳と5歳の息子たちとキャンプ旅行をする父親の姿を描いた「子供たち」だ。好き嫌いが激しく、わがままな息子たちに辟易した父親は、このように自分の人生を嘆く。

朝食の準備には複数のなべとフライパンが必要だった、というのも、デイビーはオートミールしか食べないし、バートはゼリー・オムレツがないとかんしゃくを起こすからだった。卵が焼けるのを待ちながら父は、人生のどこをどう踏み誤ったせいで自分がいまの場所にたどり着いてしまったのかを解明しようとした。オムレツのフライパンと<スマッカーズ>の大きなピーチゼリーの瓶がなければ自然の中に入って行けないという生活に。このような苦々しく被害妄想的な時間に、彼は自分を見つめがちになった、残酷なほど無意味で手の込んだ行動実験をやらされるラットのように。結婚、育児、そして肉体的な性行為ですら、どこか上のほうで観察している冷静な臨床医に支配された、腹立たしい強制的な作業のように思えた

 この文章は、コーエン兄弟が『シリアスマン』の主人公ラリーをどんな視点で描いているのか理解するヒントになるだろう。ラリーは次々と不運に見舞われることを予め運命づけられた人物だ。コーエン兄弟はどこか上の方から彼を観察しているともいえる。だから、彼の立場になって一緒に考え込み、答えが出ることを期待してしまうと、可笑しさが失われてしまう。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/製作   ジョエル・コーエンイーサン・コーエン
Joel Coen, Ethan Coen
撮影監督 ロジャー・ディーキンス
Roger Deakins
編集 ロデリック・ジェインズ
Roderick Jaynes
音楽 カーター・バーウェル
Carter Burwell
 
◆キャスト◆
 
ラリー・ゴプニック   マイケル・スタールバーグ
Michael Stuhlbarg
アーサー伯父さん リチャード・カインド
Richard Kind
サイ・エイブルマン フレッド・メラメッド
Fred Melamed
ジュディス・ゴプニック サリ・レニック
Sari Lennick
ダニー・ゴプニック アーロン・ウルフ
Aaron Wolff
サラ・ゴプニック ジェシカ・マクマヌス
Jessica McManus
離婚弁護士 アダム・アーキン
Adam Arkin
-
(配給:フェイス・トゥ・フェイス)
 

 では、なぜこのような人物像が生まれ、定型になっているのか。筆者は専門家ではないので正確なところはわからないが、察することはできる。ユダヤ人は、ホロコーストの悪夢、様々な差別や疎外を体験してきた。そうした降りかかってくる災いをひとつひとつ考え込んでいたら、前に進めなくなってしまう。だから笑いに転化する。ちなみに、イーサンの短編「エレクトリック・レディランドには行ったかい」では、語り手がこんなことをいっている。

でも自分のことが笑えないとね、おまわりさん、ここが肝心な点なんですが、自分を笑えないと、人間としてはやっていけません。ユーモアがなかったら、何なんですか。ぼくらは何ですか、おまわりさん? ユーモアがなければ、ただの動物ですよ

 但し、コーエン兄弟はこの映画で、ユダヤ固有の世界観だけを描こうとしているわけではない。興味深いのは、ポーランドの村を舞台にしたプロローグだ。このエピソードは、イーサン自身が「適当な昔話を知らなかったので、自分たちで作ることにした」と語っているように、必ずしもユダヤに根ざしたものではない。

 実は筆者はこのプロローグで、帰宅した旦那が道である人物に出会ったという話を始めたときに、フランス・ブルターニュ地方のアンクーにまつわる伝承を連想した。アンクーとは馬車に乗った死神で、道で会ったり、アンクーが家の扉を叩くと死の予兆となる。コーエン兄弟がこの伝承をヒントにしたのではないかと筆者は想像しているのだが、彼らのアレンジが面白い。伝承では間もなく死という明確な運命が訪れるが、コーエン兄弟は夫婦を宙吊りのままにする。

 このエピソードが本編と繋がっていることは、ラリーの物理学の授業でわかる。まず「シュレディンガーの猫」という思考実験を取り上げ、彼自身が「私ですら猫の生死はわからない」と語る。「不確定性原理」を取り上げたときも、「予測不可能」と語る。同時に起こった自動車事故で死んでいたのは、サイではなく彼であったかもしれない。ある意味で彼はすでに、自分の能力で「わからない」という答えを出している。にもかかわらずラビに答えを求める。そしてエンディングでも、不吉な予兆だけが示され、結果がわからないまま物語が終わる。

 そんな共通するイメージの連鎖に気づくとき、この映画は、ユダヤ固有の世界だけではなく、私たちの世界にもなっているのだ。

《引用文献》
『エデンの門』イーサン・コーエン●
浅尾敦則訳(河出書房新社、1999年)

(upload:2011/12/20)
 
 
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