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グローバリゼーションについては、地域社会や家族の崩壊を招くという指摘もあるが、この映画に描かれるコロンビアの田舎町には、それが当てはまる。マリアが仕事を辞めたことを知った母親や姉は、謝罪してでも職場に戻るように説得する。家族は彼女を労働力としか見ていない。この町には他に女性ができる仕事はない。マリアの支えとなるようなコミュニティもなければ、彼女のロールモデルとなるような人物もいない。この映画は、そんなマリアの現実を掘り下げていくだけで、それが直接グローバリゼーションへと繋がっていく。なぜなら、その中間で彼女に影響を及ぼすはずの地域社会や家族が崩壊しかけているからだ。
そうなると、マリアが農園を辞めてミュールになることの意味も変わってくる。それは、単なる転機ではない。彼女は、農園で仕事をしているときからすでにグローバリゼーションに取り込まれ、その先にミュールになるためのレールも敷かれている。彼女にミュールの話を持ちかけるフランクリンは、そんな出口のない地方で不満を抱えている娘たちを探し回るスカウトであるからだ。その結果、グローバリゼーションによって存在が規定されることの意味がより明確になる。マーストンがこの映画で描こうとしているのは、グローバリゼーションとその末端にいる個人の関係であり、マリアの本当の転機は、実は映画の後半に訪れるのだ。
モーテルに閉じ込められたマリアは、その翌朝、バスルームが血だらけになり、見張り役の男たちと先輩のルーシーが見当たらないことに気づく。そのルーシーは機内ですでに体調を崩していた。危険を察知した彼女は、モーテルから逃亡し、空港でルーシーから渡されたメモを頼りにクイーンズに住む彼女の姉を訪ね、救いを求める。そこで彼女は、コロンビア人たちのコミュニティを発見する。だが、彼女は、何も知らない姉に、ルーシーに起こったことを語ることはできない。
マーストンは、影響を受けた監督として、ケン・ローチ、マイク・リー、ヘクトール・バベンコ、コスタ・ガブラスの名前を上げているが、この映画を観る限り、筆者が大きな共通点を感じるのは、ダルデンヌ兄弟の世界だ。彼らは、グローバリゼーションによって疲弊した地域社会を背景に、孤立した若者たちが、切迫した状況のなかで自分に目覚め、大人へと移行する過程を探求しつづけている。
この映画のマリアの姿は、彼らの『イゴールの約束』の主人公を想起させる。不法滞在外国人の斡旋を仕事にする父親に従属し、罪の意識もなく生きるイゴールは、瀕死の労働者と交わした約束に心を揺さぶられ、必死にその夫を探す妻に救いを見出し、苦しみながら真実と向き合っていく。マリアもまた、ルーシーの死に心を揺さぶられ、彼女の姉に精神的な救いを見出す。そして、その姉の好意を裏切るような立場に陥りながらも、真実と向き合い、自分の責任と自由に目覚めていくのだ。
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