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時代は1795年。理髪師トッドは、かつら屋、接骨医、歯科医なども兼ね、フリート街に店を構えている。その人柄は一見温厚に見えるが、常連ではない裕福そうな客がやって来ると、剃刀で喉を掻き切り、地下室で金品を奪う。そして客の遺体は、彼の愛人で、通りの向かいに店を出しているラベット夫人のところに卸す。この夫人が作る特製ミートパイは街で評判となり、店は大繁盛している。
ところが、失踪した宝石商にダイヤをオーダーしていたアメリカ人の顧客が、宝石商探しに乗りだす。彼は、トッドの素行、そして夫人のミートパイの中身に疑問を持つようになり、次第に真相に迫っていくことになる。
このドラマでは、階級制度や機械化産業といった社会的な背景がそれほど強調されることもないし、主人公トッドに疎外の影は薄い。彼がかつて戦争で地獄を体験したらしいという暗示はあるが、そんな過去よりもむしろ、欲望のままに生きているという印象の方が強い。それでは、トッドの原型の物語を再現しているのかといえば、決してグロテスクなイメージによって人々の好奇心を刺激しようとする作品でもない。
トッドとラベット夫人の表と裏の世界をあくまで日常的な視点で描き、グロテスクな物語から現代的なリアリティを引きだしているのだ。
冒頭でボンドの戯曲やソーンハイムのミュージカルを現代的な解釈として紹介したが、それらは見方によってはもはや現代的とはいえないものになっている。この戯曲やミュージカルが注目を浴びたのは70年代のことだが、その頃と現代とではイギリス社会そのものがまったく変わってしまっているからだ。80年代のサッチャリズム以後のイギリスは、福祉から自由主義経済へと大胆に方向転換し、
アメリカ的な消費社会が拡大し、競争意識の高まりとともに拝金主義がはびこるようになった。そんな社会は、グロテスクでありながらリアルなドラマを生みだす源となる。
たとえば、カニバリズムという共通点を持つ作品として注目したいのが、ピーター・グリーナウェイの「コックと泥棒、その妻と愛人」だ。強欲な泥棒が牛耳る高級レストランを舞台にしたこの映画は、サッチャリズムを象徴している。サッチャリズムを支えているのは、欲しいものを手に入れるためなら手段を選ばない泥棒であり、その欲望が食べるという根源的な行為を通して描かれる。そして最後には、カニバリズムをたぐりよせることになるのだ。
あるいは、最近公開されたばかりのガイ・リッチーの「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」と比べてみても面白いと思う。このドラマでは、筋金入りのギャングにコソ泥、上流階級に労働者の若者などが入り乱れ、金の争奪戦を繰り広げるが、手段を選ばない欲望のもとでは誰もが平等であり、凄まじい争奪戦のなかではその道の玄人と素人、階級の違いなどはまったく意味を失っていく。
要するに問題は金があるかないかであって、階級などは在って無いようなものなのだ。それは、トッドと彼の理髪店の椅子に座る客たちの関係にも当てはまる。客たちは、階級や地位に関係なく、剃刀を持った彼の前で無防備になり、彼は、単に金目のものを持っていそうな客だけを血祭りに上げていくわけだ。
階級制度や工業化が人々を支配する抑圧的な社会では、トッドという個人は疎外される弱者であり、それゆえ復讐に駆り立てられるが、サッチャリズム以後の個人主義社会では、欲望のままに剃刀をふるい、犠牲者の肉からも利益をあげることによって、時代を象徴する存在となるのである。
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