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リアムがスタンからヤクを横取りし、それをさばくことになったとき、ヤクの扱いについては一日の長があるピンボールは、彼に護身用のナイフを渡そうとする。それに対してリアムは、自分は頭を使うからナイフはいらないと答える。そんなリアムは三人組にボコボコにされ、ピンボールの正しさが証明されたかに見える。しかしやがて彼は、ピザ屋を隠れ蓑にすることによって、自分の正しさを証明する。人目につかない場所でストリートの連中を相手にする場合には危険がともなうが、宅配を利用すれば一般家庭に客層を広げていくことができる。リアムが、一日5、6ポンドの利益のために汗水たらして働くピザ屋の従業員を買収するとき、彼はこれまでとは違うタイプの売人になっているのだ。
しかし彼は、自分がやっていることの意味を正確に理解できるほど大人ではない。内心で驚いているのは、むしろ元締めであるビッグ・ジェイの方だ。ビッグ・ジェイにとっては、ピンボールが車を盗んでスポーツクラブに突っ込んだ一件など、ピンボールさえいなくなれば、もう痛くも痒くもない。リアムとビッグ・ジェイの関係は、ただの売人と元締めから優れた起業家とそれを支援する資本家に変化しているのだ。そしてもちろん、もうひとつ、リアムが理解していない、というよりも目を背けていることがある。刑務所で母親にヤクを渡すことを拒んだ彼が、いまや普通の母親にまで平気でヤクを売りつけているということだ。
こうした展開をサッチャリズムに対する痛烈な皮肉と見る向きもあるだろう。かつてサッチャー政権は、企業の合理化や自助努力を強く奨励した。ピザの宅配システムを改革し、パソコンで顧客管理を始めるリアムは、まさにその忠実な実践者だといえる。しかしこのドラマは皮肉の次元を遥かに越えている。イギリスではサッチャリズムによって消費社会が拡大し、その裏ではドラッグの市場も拡大した。ビッグ・ジェイはそんな裏の市場を代表しているが、リアムはその裏の市場を限りなく表に近いものに変えようとしているのだ。
この映画は、グラスゴーとグリーノックで撮影され、リアム役にはグリーノック出身のサッカー選手マーティン・コムストンが起用されている。そのグリーノックは、造船業が下火になったあと、80年代にエレクトロニクス産業が誘致され、新たな発展をとげるかに見えた。しかしいまでは、そのエレクトロニクス産業でも工場が閉鎖されたり、大量解雇が行われ、産業の空洞化、人口の減少が深刻化している。ローチは、リアムのビジネスを通して、産業が空洞化し荒廃したエリアでは、ドラッグの市場がもはや裏のものではなくなり、エリアを支える産業にさえなってしまう危険があることに警鐘を鳴らしているのだ。そして最終的にはドラッグがエリアを崩壊させることは言うまでもない。
ローチの代表作である『ケス』とこの映画は、どちらも15歳の少年を主人公にし、彼らはともに社会によって未来を奪われているが、その社会には大きく違うところがある。『ケス』では、タカの飼育が物語る少年の豊かな個性や知恵は、人間を画一化するような階級や社会制度のなかで見過ごされ、押しつぶされていく。これに対してリアムもまた、弱者を冷酷に切り捨てる社会のなかで、逆境に立たされているが、彼を取り巻く自由市場は、最低限の秩序の維持を刑罰に委ね、社会に最大限の放任状態を生み出そうとする。そこには、彼のように頭の切れる若者が、その能力の使い方を一歩間違えると、どこまでも深みにはまっていく恐ろしさがあるのだ。
この映画の冒頭でリアムは、望遠鏡で土星を見る子供たちに、土星の一日は10時間と14分だと説明する。彼の2ヶ月はそれよりももっと早く、自分を振り返ることもできないままに過ぎ去り、彼が16歳になったときには、家族を取り戻す夢は崩れ去ってしまったかに見える。追い詰められた彼にとってささやかな救いとなるのは、姉からの1本の電話であり、それにつづく静かなラストは、彼が等身大の自分に帰っていくことを予感させる。
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