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たとえば、この映画では、感覚の表現が際立っている。生活の変化によって、チョンヘのなかには、記憶だけではなく感覚が甦ってくる。母親が足の爪を切ってくれたときに、彼女が感じた光の眩しさや深爪の痛み。彼女は、単調な生活のなかで、感覚を失っていた。その感覚を取り戻すことは、生きていることの実感に繋がる。だから、彼女はテレビを流しっぱなしにしなくなる。しかし、一方では、靴屋の場面が物語るように、他者との距離にも敏感にならざるをえなくなる。
そして、彼女が取り戻す感覚のなかでも、特に重要なのが、痛みの感覚だ。痛みの感覚は、この映画のなかで、見えない流れを形作っていく。出発点は、記憶のなかにある。まず、深爪の痛みがある。次に、夫と新婚旅行に行ったときに、初体験のことを尋ねられ、痛かっただけだと答えた記憶が甦る。しかし、その痛みはまだ、実感としては甦っていない。彼女は、現在のドラマのなかで、食事の約束をすっぽかされたり、自殺を考えるほどの苦しみを背負った若者と過ごすことで、実感としての痛みに近づいていく。
そんな彼女が、自分のなかにある痛みを完全に取り戻すのは、公園でつまずき、バックから飛び出したナイフで自分を傷つけてからだ。彼女は、傷の手当てをしながら、感情をほとばしらせるように泣く。おそらく彼女は、かつて最も辛い体験をしたときに、泣くことができなかったはずだ。彼女は、母親に告白できず、痛みと哀しみを押さえ込んできたからだ。
デイヴィド・B・モリスの著書『痛みの文化史』の冒頭には、以下のような記述がある。「痛みは、恋愛がそうであるように、人間の最も基本的な体験に属しており、私たちのありのままの姿をあきらかにする」。チョンヘは、痛みを取り戻すことによって、ロボットではない、本来の自分に目覚める。それだけではなく、すでに痛みを乗り越えてもいる。なぜなら、過去に囚われるのではなく、すぐに捨てられた猫のことを考えられるからだ。
映画のラストで、作家志望の青年と向き合うチョンヘは何を思うのか。おそらく彼女は、彼のことを信じ、痛みも含めた自分を曝け出せるのかと、自分に問うているのだ。 |