チェイサー
The Chaser


2008年/韓国/カラー/125分/シネマスコープ/ドルビーデジタル
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(初出:web-magazine「e-days」 Into the Wild 2009年4月9日更新、加筆)

 

 

事件にインスパイアされた設定も激烈なアクションも
すべては埋もれた“痛み”の感覚を呼び覚ますためにある

 

 ナ・ホンジンの長編デビュー作『チェイサー』の主人公は、デリヘルを経営している元刑事のジュンホだ。店の女たちが次々と行方をくらますのを不審に思った彼は、電話番号を手がかりに怪しい客を探すうちに、路上でその男に遭遇する。そして、激しい追跡の末にその男ヨンミンを捕らえ、警察に突き出す。男は連続殺人を認めるが、物的証拠がなにもないため釈放されてしまう。ジュンホは、まだ生きているという店の女ミジンを助けるために奔走するが…。

 ナ・ホンジンは、ふたつの事件にインスパイアされてこの映画を作ったという。それは、デリヘル嬢や資産家など21人を殺害したユ・ヨンチョル事件とイラクで起きた韓国人人質殺害事件だが、興味深いのは、そうした題材に対するアプローチだ。

 ふたつの事件には、社会的、政治的な要素があるが、彼は必ずしも社会的、政治的な映画を作ろうとしているわけではない。一方でこの映画には、生々しい暴力や激烈なアクションが盛り込まれているが、そこに主眼を置いているわけでもない。

 ふたつの事件について注目しなければならないのは、状況によって命の重さが変わるということだろう。たとえばこれはユ・ヨンチョル事件に限らないが、連続殺人で犠牲者が風俗の仕事をしていた場合に、その命が軽視されることがある。その一方で、イラクで人質が殺害されるような事件が起こると、激しい怒りと愛国心が湧き上がることがある。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ナ・ホンジン
Na Hong-jin
撮影 イ・ソンジェ
Lee Sung-je
編集 キム・ソンミン
Kim Sun-min
音楽 キム・ジュンソク、チェ・ヨンナク
Kim Jun-seok, Choi Yonh-rak
 
◆キャスト◆
 
ジュンホ   キム・ユンソク
Kim Yoon-suk
ヨンミン ハ・ジョンウ
Ha Jung-woo
ミジン ソ・ヨンヒ
Seo Young-hee
ウンジ(ミジンの娘) キム・ユジョン
Kim You-jung
イ刑事 チョン・インギ
Jeong In-gi
機動捜査隊長 チェ・ジョンウ
Choi Jung-woo
班長 ミン・ギョンジン
Min Kyoung-jin
オ刑事 パク・ヒョジェ
Park Hyo-ju
マヌケ ク・ボヌン
Koo Bon-woong
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(配給:クロックワークス、
アスミック・エース)
 
 
 

 こうした感情というのは、だいたい個人の顔が見えない集団のなかで流通する。ナ・ホンジンが関心を持っているのは、集団から引き離された個人がそうした状況と向き合うことになったときに、どのような感情を抱き、どのように対処するかということだ。

 もともとジュンホが電話番号を手がかりに行動を起こしたのは、店の女たちのことを心配したからではない。彼女たちに渡した手付金を取り戻すためだ。問題は命ではなく金だった。

 ナ・ホンジンは、そんなジュンホが個人として緊迫した事態と向き合わざるを得ない状況を巧みに作り上げていく。手がかりを求めて彼が訪ねる同業者は、店の女が消えても気にしていない。それはジュンホ自身の姿でもある。ひとりで留守番をしていたミジンの娘と行動をともにすることも、自分を見つめることに繋がる。さらに警察も、市長や検事の政治的な駆け引きに縛られ、役に立たない。

 この映画を印象深いものにしているのは、そんな立場から引き出されるどうにもならないもどかしさと息苦しさだ。そして、惰性で生きているようなジュンホの心の底に埋もれていた痛みの感覚がよみがえる。

 デイヴィド・B・モリスは『痛みの文化史』の冒頭で、「痛みは、恋愛がそうであるように、人間の最も基本的な体験に属しており、私たちのありのままの姿をあきらかにする」と書いている。ナ・ホンジンが描き出そうとするのは、そんな本来の自分に目覚めるような痛みだ。

 この痛みというテーマについては、殺人犯ヨンミンの存在も重要な意味を持つ。なぜなら彼は、動機がどのようなものであれ、痛みの感覚を持たない人物として描かれているからだ。そしていうまでもなくそんな存在が、ジュンホの目覚めをより際立たせることになる。この映画では、実際の事件にインスパイアされた設定やキャラクターも、激烈なアクションも、生々しい暴力も、すべてこの痛みを呼び覚まし、浮き彫りにするためにある。

▼ナ・ホンジン最新公開作『哀しき獣』

《参照/引用文献》
『痛みの文化史』デイヴィド・B・モリス●
渡辺勉・鈴木牧彦訳(紀伊國屋書店、1998年)

(upload:2011/12/15)
 
 
《関連リンク》
ナ・ホンジン 『哀しき獣』レビュー ■
シム・ソンボ 『海にかかる霧』 レビュー ■
ポン・ジュノ 『殺人の追憶』レビュー ■

 
 
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