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ニノとブルーノは72年に田舎町で出会い、場末のストリップ劇場でスターへの切符をつかむ。きっかけは、慣れない舞台で、ニノが緊張のあまり硬直してしまったときに、ブルーノが客のリクエストに答えて相方をどついたことだった。やせのブルーノがでぶのニノをどつく。ただそれだけのことがこの映画の境界となり、歴史を取り込んでしまうのだ。
なぜなら、彼らが成功への足がかりをつかむ72年は、フランコ独裁時代の末期にあたり、大衆はこのどつくという不道徳な行為に快感をおぼえる。ブルーノが硬直したニノをどつく瞬間、大衆はブルーノ=フランコとなって、解放されるのだ。しかしただひとりで抑圧される大衆を引き受けることになったニノも黙ってはいない。イグレシアの映画では、過激で狂信的なドラマのなかで、
しばしば境界をめぐる立場の転倒が起こるが、新作も例外ではない。エイプリル・フールにニノは狂言を仕掛ける。ブルーノは、偽の治安警察に急襲され、死ぬほどの恐怖を味わい、自分がフランコではないことを思い知らされる。
さらにこのコンビの登場は、もっと異なるレベルで独裁以後の社会を象徴している。一般に独裁政権は、血を流す革命によって倒され、民主化への道を歩むが、スペインでは、フランコが死ぬまで独裁を全うした。そして独裁者の死後に何も起こらなかったことが、革命となった。要するに”たなぼた”であり、それゆえに大衆はいつか何かが起こるのではないかという疑心暗鬼にとらわれ、実際に水面下ではふたつのスペインがせめぎあってもいた。
ニノ&ブルーノのどつきもまた、たなぼたであり、彼らは疑心暗鬼にとらわれていく。ケッサクなのは、成功した彼らが、隣り合わせに同じ家を建て、表面上は平静を装いながら、お互いに日夜相方を監視し、精神的に追いつめ、蹴落とそうとするところだ。まさに表面上の平等は達成されたものの、権力闘争がつづいているのである。
そんなことを踏まえると、彼らと実写映像の絡みはいっそう面白いことになる。81年のクーデターでテレビ局を占拠した部隊の隊長は、収録中の映像のなかで、復讐の鬼と化したニノがブルーノに強烈などつきを食らわすのを目の当たりにして、「ついにその時がきた」と囁く。つまり今度は、ニノの方がフランコになっているのだ。しかもニノは、バルセロナ五輪のスターの座を金で買うことによって、サマランチIOC会長ともなる。
そこで、かつてサマランチがフランコに接近し、スポーツ界に基盤を築いたことを思い起こすなら、独裁時代からのせめぎあいは映画の最後までつづいていることになる。イグレシアは、必死に相方を蹴落とそうとするコンビを通して、奇妙なリアリティに満ちたスペイン現代史を描いてしまうのである。
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