ドニー・ダーコ
Donnie Darko


2001年/アメリカ/カラー/113分/シネマスコープ/ドルビーSRD
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(初出:『ドニー・ダーコ』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

閉塞するサバービア――“1988年”という世界の終わり

 

 1987年にニュージャージーにある郊外の町で、4人のティーンが集団自殺する事件が起こり、さらに事件のニュースが流れるとそれを真似するティーンが現れ、世間が騒然となった。ドナ・ゲインズの『Teenage Wasteland』は、この事件をきっかけにその舞台となった町を取材し、レーガンの時代に若者たちが郊外でどのような状況に置かれているのかを探ったノンフィクションだ。

 そのなかで著者は、60年代末か70年代であれば、郊外のティーンには、町を離れて自分を探すための夢の路上があったが、いまではそれが失われていると書いている。レーガン政権の下で社会は保守化し、“家族の価値”が喧伝され、郊外はより閉塞的になり、若者たちはどこにも出口を見出せなくなってしまったのだ。

 リチャード・ケリー監督の『ドニー・ダーコ』でまず印象に残るのは、そんな80年代という時代へのこだわりだ。このドラマでは、80年代の閉塞感が独自の視点と感性でとらえられている。時代背景である88年10月は大統領選の最中であり、テレビにはブッシュとデュカキス両候補の討論会の模様が映しだされる。それは、レーガンの任期が終わりつつあるのを示唆するだけではなく、この映画の世界がまさしくレーガンの作ったアメリカであることを強調してもいる。

 ドニーとウサギの関係は、80年代にたびたび話題となったサタニズムを連想させる。サタニズムの騒ぎのもとになっているのは、ほとんどが根も葉もない噂の類だが、88年にトミー・サリヴァンの事件が起きたときには、それがきっかけのひとつになってパニックに発展した。これは、トミー・サリヴァンという若者が、夢のなかに現れたサタンの指示に従って母親を殺害し、自殺したという事件だ。

 80年代のサタニズムをめぐるパニックを検証したジェフリー・S・ヴィクターの『Satanic Panic』には、サタニズムに引き込まれるのは白人の中流階級で、頭もよく、画一的な郊外のコミュニティのなかで自己の無力さを感じるがゆえに、自分と世界をコントロールすることを求めるティーンだという指摘がある。この映画のドニーは、サタニズムに引き込まれるわけではないが、ウサギの存在を通して自分と世界をコントロールしようとするという意味では、明らかに共通するものがある。

 また、自己啓発セミナーを主宰し、住人たちから教祖のように崇められるカニングハムは、80年代にメディアを席巻したテレビ伝道師たちを連想させる。そのテレビ伝道師は、金銭やセックスをめぐるスキャンダルで80年代後半に厳しい批判を浴びたが、この映画でも、ドニーがカニングハムの屋敷に放火したことがきっかけで、その内部から“児童ポルノの館”が発見され、彼は逮捕されることになる。

 ドニーはウサギの出現によって、生きているのか、死んでいるのか、夢を見ているのか、予め決められた運命をたどっているのか、自殺願望に駆られているのか定かでない、混沌とした世界に引き込まれていく。そこで注目しなければならないのが、なぜ世界の終わりが88年でなければならないのかということだろう。監督のリチャード・ケリーは75年生まれで、88年にはまだ13歳であり、この年が当時から特別なものとして彼の記憶に深く刻み込まれていたとは考えにくい。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   リチャード・ケリー
Richard Kelly
撮影 スティーヴン・ポスター
Steven Poster
編集 サム・バウアー、エリック・ストランド
Sam Bauer, Eric Strand
音楽 マイケル・アンドリューズ
Michael Andrews
 
◆キャスト◆
 
ドニー・ダーコ   ジェイク・ギレンホール
Jake Gyllenhaal
グレッチェン・ロス ジェナ・マローン
Jena Malone
ローズ・ダーコ メアリー・マクドネル
Mary McDonnell
カレン・ポメロイ ドリュー・バリモア
Drew Barrymore
ジム・カニングハム パトリック・スウェイジ
Patrick Swayze
エディ・ダーコ ホームズ・オズボーン
Holmes Osborne
エリザベス・ダーコ マギー・ギレンホール
Maggie Gyllenhaal
リリアン・サーマン キャサリン・ロス
Katharine Ross
-
(配給: アスミック・エース、ポニー・キャニオン )
 


 80年代は郊外の若者にとって決してよい時代ではなかった。だから彼らはアメリカが変わることを期待していたはずだ。ところが期待するような変化は訪れなかった。そういう落胆はどんな世代にもあるだろうが、80年代とそれ以後は、これまでの時代の流れとは決定的に違う。たとえば、80年代にアメリカ主導で世界に広がった自由市場を批判するジョン・グレイの『グローバリズムという妄想』では、自由市場によって変わってしまった経済や社会は、もう二度と元に戻すことができないという言葉が繰り返される。自由市場は、伝統を解体し、「未来を現在の無限の繰り返しにする」のだ。

 さらに、G・スコット・トーマスの『The United States of Suburbia』は、時代だけではなく、郊外も後戻りがきかないことを物語る。かつて民主党と共和党はそれぞれ都市と郊外を基盤として対立していた。ところが、90年代に入ってこの構図は完全に崩壊した。大統領選で、郊外の住人が実権を握る州が都市のそれを完全に上回り、民主党も共和党も郊外に支持基盤を求め、アメリカ社会の未来は郊外によって決定されることになったからだ。そして、その布石が打たれたのも80年代だといえる。

 もちろん監督のケリーは、そんな具体的なことを頭に入れて映画を作ったわけではないだろう。しかしそれでも、90年代以後を体験すればするほど、88年に至るレーガンの8年間がいかに決定的であったかを思い知らされることになる。彼が描く世界の終わりとは、世界が消滅することではない。この映画は、未来を失い、現在の無限の繰り返しという終わりの延長を生きる感覚を、ユニークな発想でリアルに描きだしているのだ。

《参照/引用文献》
“Teenage Wasteland: suburbia’s dead end kids”by Donna Gaines●
(University of Chicago Press)
“Satanic Panic”by Jeffrey S. Victor●
(Open Court)

『グリーバリズムという妄想』ジョン・グレイ●
石塚雅彦訳(日本経済新聞社、2001年)
“The United States of Suburbia”by G. Scott Thomas●
(Prometheus Books)

(upload:2009/06/09)
 
 
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