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監督のイム・サンスは、プレスのなかで、主人公であるヨンジャクと彼の妻ホジョンについて、このように語っている。「ホジョンとヨンジャクは韓国では386世代として知られる年代に属している。30代で、大学に入ったのは80年代で、生まれたのは60年代という世代だ。僕自身もまさに386世代で、民主化されたばかりでフェミニズム運動も現れたばかりの韓国社会で成長する恩恵に浴した。僕らは物質的な豊かさに恵まれた新しい中上流階級を形成していったんだ」。
この映画は、ヨンジャクとホジョン、ヨンジャクの両親の関係を通して、世代だけでなく、男と女の立場も掘り下げていく。イム・サンスはシネスコの画面を効果的に使い、彼らの立場を描き出している。この4人の個々のドラマでは、彼らの周りに空間が生まれる。その空間は、家族が画面を埋める場面と対比されることによって、彼らそれぞれの孤独を強調することになる。
この映画には、家族が画面を埋める印象的な場面がふたつある。ひとつは、父親の病室に家族が揃う場面だ。それは、重病の父親を家族が団結して支える姿であるはずだが、彼らはばらばらだ。父親は、死を望むように煙草を吸う。母親は、小学校時代の同級生と付き合っている。ヨンジャクは、元モデルの愛人のもとに通っている。冒頭で発掘に立ち会った彼は、その後で愛人のもとに直行する。また彼は映画の終盤で、父親が吐いた血を浴びたときに、看護婦に対する激しい欲望を覚えたと告白する。彼は、父親が背負う歴史の抑圧を他者と分かち合うことができず、肉体的な快楽に逃避しつづける。不感症になっている妻のホジョンは、隣に住む17歳の高校生が彼女を覗いているのに気づき、若者を誘惑するようになる。
そしてもうひとつは、父親の葬儀を終えた後で、母親、ヨンジャク、ホジョン、彼らの養子である7歳のスインが、蒲団で川の字になり、話をする場面だ。そこで母親は、幼なじみと付き合い、15年ぶりにセックスしたことを告白し、これからは自分に正直に生きると宣言する。それに対するヨンジャクとホジョンの反応は興味深い。
ヨンジャクは唖然とし、母親を軽蔑している。しかし、彼自身は母親と同じことをしている。というよりも、母親よりも救いがない。母親が幼なじみとダンスホールで踊る場面では、画面が同じようなカップルで埋まっているように、彼女は分かち合うものを見出している。これに対して、ヨンジャクと愛人の関係は、彼女が中絶してからより親密になるものの、彼らを取り巻いているのは孤独の空間であり、その関係は、致命的な事故に繋がる。
一方、ホジョンは、義母に対して内心喝采を送っているが、重要なことは、だからといって、義母と同じ行動をとろうとはしないことだ。彼女は、隣の高校生を誘惑するものの、デートするだけでセックスは拒みつづける。その理由は明らかにされないが、察することはできる。高校生の頭のなかにあるのはセックスだけで、おそらく彼女は、そんな若者のなかに夫を見ている。彼女の不感症は、そんな欲望だけでは解決しない。ヨンジャクとホジョンが養子をもらったのは、彼らの間に子供ができなかったからだろうし、ヨンジャクが愛人を妊娠させていることから、不妊の原因はホジョンにあることになる。
しかしわれわれは最後に、ホジョンが不妊症という病気ではなかったことに思い至る。イム・サンスは、ふたつの世代のドラマを最終的に、ホジョンの不感症や不妊症へと集約していく。それゆえ、クライマックスのセックス・シーンは大きな意味を持つ。そのときホジョンには、高校生の存在は何の意味もない。彼女の肉体を貫く快楽は、自分への目覚めを表わしているのだ。
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