ファイト・ヘルマー・インタビュー

2000年10月 赤坂
ツバル/Tuvalu――1999年/ドイツ/カラー/92分/シネスコ/ドルビーSR
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(初出:「キネマ旬報」2001年1月下旬号、大幅に加筆)

 

 

映画を本来の姿に戻し、映像の力を呼び覚ます
――『ツバル』(1999)

 

 ドイツ映画界の新鋭ファイト・ヘルマーは、長編デビュー作『ツバル』を観ただけで、すでに独自のスタイルを確立していることがわかる。この映画で彼は、モノクロで撮影したフィルムに着色したセピア調の映像、サイレント映画を思わせる演出、 レトロな小道具などを駆使し、時代も場所も定かではない不思議な世界を作り上げている。

――『ツバル』は、舞台となる空間が限定されていたり、台詞が最小限にとどめられていたり、モノクロで撮影されるなど、一方では非常にシンプルな作りでありながら、もう一方では、空間の造形がユニークであったり、複数の言語が混ざり合ったり、 モノクロのフィルムに着色するなど、たくさんのアイデアが盛り込まれ、オリジナルな世界を作り上げていますが、作品のそもそもの出発点はどこにあるのでしょう。

ファイト・ヘルマー(以下VH) 1987年にハンブルクにある古いプールで泳いでいたときに、この映画のアイデアを思いついたのが始まりだ。プールの清掃員をしている若者が、夜にプールの掃除をしているとき、更衣室の鍵が落ちているのを見つける。 彼がその鍵で更衣室を開けてみると、若い女の服がかかっている。それで、こんな夜更けなのに、自分はひとりではなく、誰か女性がいることに気づく。最初はどちらかといえば、ちょっとエロティックなイメージだった。そこで、ちょっとマジカルな感じにするにはどうすべきか考え、 映像や音で表現する必要があると思った。会話では表現できないから。アーティストが受けた印象を他の人に伝えるために再現する場合、普通の方法ではなかなかうまくいかない。色も自然の、そのままの色ではなく、夢のような変わった印象を醸しだすために、異化するような色を出す必要があると思ったんだ。

――それでモノクロのフィルムに着色を。

VH 着色は確かに珍しいテクニックだよね、特に僕の今回の作品のみたいに全編通じて色をつけているっていうのは初めてかもしれない。僕は人が色を知覚する際の心理学のようなものを非常に重要視してるんだ。たとえば赤を見たり、青を見たりしたとき、人はどう感じるか、そういうことに強い関心がある。 これまで普通のカラーで短編を作ってきて、その結果に不満を感じてた。カラーにすると何か表現が制限されるというか、アーティストが映画から疎外されてしまうような印象があって。要するにカラーだと自然で客観的な真実になってしまうけど、僕は自分の主観的な真実を再現したいと思っていた。カラーだと観客は観客の感覚でその世界を見てしまうけど、 こういう方法をとれば観客が僕の感覚を通して世界を見ることができる。短編の「サプライズ」では、7千コマのフィルムすべてに手で色を付けて、非常に印象的な作品ができた。この長編ではモノクロに着色することにしたんだけど、そうすることで観客が観る世界に対して、監督がより広範な主導権を握ることができるようになったんだ。

――映画のキャストが国際的なものになったのはどうしてですか。

VH 最初はそんなにいろいろな国々から俳優を呼んでくるつもりはなかった。当時、僕は短編「サプライズ」で各地の映画祭を回っていて、いろんな俳優に会う機会があった。で、そういうことを繰り返しているうちに、他の国に行ったらもっといい俳優に会えるかもしれないという思いにとらわれるようになり、こういう結果になった。 でもそれだけではなく、国際的なキャスティングにすることによって、この映画しか持たない独自の顔というものができると思った。

 もうひとつには、僕が俳優に多くを求めすぎているということがあるかもしれない。ひとつの国では僕の要求を満たす俳優がわずかしかいない。僕が求めていた俳優というのは、言葉を使わずに話すことができる人、そういう本当に表現力にあふれた人なんだ。最近の俳優というのは、話すことに慣れすぎているというか、 話すことばかり求められてしまって、言葉以外で存在感を表現するっていうことがなかなかできないみたいで。今回この映画に出演してくれた俳優の人たちは、幸運だったんじゃないかと思う。感情を言葉ではなくて、身振りで表現するというのは、俳優にとって最高の技量が要求されるもので、本来彼らが持っている能力を発揮できる機会になったのではないかと思うんだ。

――こういうかたちの映画だと、どこの国の人も字幕を気にする必要がなく、映像が観客にストレートに伝わります。そういう意味では、ドイツ映画の枠組みに縛られない作品ともいえると思うのですが。

VH そう、字幕というのは唯一監督が関与できない部分なんだ。他は監督としてすべて気を配ることができるけど、字幕だけはできない。ドイツ映画の枠組みということでいえば、ヨーロッパはいま、単一通貨の導入とか旅券なしに行き来できるとか、ひとつのヨーロッパ、ヨーロッパ合衆国のようになりつつある。だけど心の中や思想、文化はどうかというと共通性はまだない。 僕の今回の映画というのは、ひょっとするとそういう現状に対する取り組みのひとつといえるかもしれない。ヨーロッパ共通のアイデンティティを作っていくという。過去を振り返れば、ナショナリズムがいろんな戦争を引き起こしてきた。僕は、抽象的な国家というものより、人間ひとりひとりの存在そのものの方がもっと面白いと思う。今回の映画の製作過程ではまさにそんなことを感じた。 いろんな国から人が集まり、3ヶ月間プールで撮影していたんだけど、みんな誰もどこから来たのかっていうことは聞かない、何を感じ、どんな気持ちなのかっていうことしか話さない。それで人間は分かり合える、そういう状況で製作していたんだ。

 


◆プロフィール
ファイト・ヘルマー
1968年ハノーバー生まれ。子供の頃から映画に関心を持っており、すでに14歳のとき、8ミリカメラで撮影を行う。数年間の助監督時代をすごし、1989年にはDAAD(ドイツ学術交流会)の奨学金を得て、1年間東ベルリンのエルンスト・ブッシュ演劇大学に留学。 その後、ミュンヘンのテレビ映画大学に進む。このミュンヘン時代に6本の短編を撮り、国際的にも高い評価を受け、50個以上の賞を受賞している。「エッフェル塔」は8つの賞を、また「サプライズ」にいたっては42の賞を受賞し、 ベルリン、カンヌ、サンダンスなど130の映画祭で紹介された。また1996年には、ヴィム・ヴェンダースの『スクラダノウスキ兄弟』に共同脚本家と製作者として参加している。「ツバル」はファイト・ヘルマーの初めての本格的な長編劇場映画である。 現在、ヘルマー監督は彼の第2作目のプロジェクトとして、エミール・クストリッツァの『エジプト時代』と「黒猫・白猫」のシナリオを書いたゴーダン・ミビックと組んで脚本を書いている。
(「ツバル」プレス資料より引用)
 
―ツバル―

◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ファイト・ヘルマー
Veit Helmer
脚本 ミヒャエラ・ベック
Michaela Beck
撮影監督 エミール・クリストフ
Emil Christov
編集 アラクシ・ムーイビアン
Araksi Muhibyan
音響 ユルゲン・クニーバー
Jurgen Knieper

◆キャスト◆

アントン   ドニ・ラヴァン
Denis Lavant
エヴァ チュルパン・ハマートヴァ
Chulpan Khamatova
カール フィリップ・クレー
Philippe Clay
マルタ カタリナ・ムルジア
Catalina Murgea
グレゴール テレンス・ギレスピー
Terrence Gillespie
検査官 E.J.カラハン
E.J. Callahan
警官 トドール・ゲオルギエフ
Todor Georgiev
(配給:アルシネテラン)
 

――映画監督を目指すきっかけというのは。

VH 僕は子供の頃にパントマイムをやってた。チャップリンの大ファンで、チャップリンのものは何でも集めていた。あの頃は映画の世界をそのまま信じ込んでいた。それが幻想であることを僕に思い知らせ、ベールを取り払ったのは、14歳の時に観たトリュフォー監督の「アメリカの夜」だった。まるでサンタクロースは実は隣のおじさんだったとわかった時のような衝撃だった。 映画の背後にはカメラマンや裏方がいることを初めて知って…それは僕にとって素晴らしい体験だった。人間がそういう世界を作れるということが、まるで魔法のように思えた。監督というのは全宇宙を作れる神様のような存在なんだと思って、さっそく次の日から映画を作り始めたんだ。

――この映画は、サイレント映画にインスパイアされたところがあると思うのですが、サイレント映画には以前から関心があったのでしょうか。

VH サイレント映画の時代というのは、映像による言語がいちばん豊かな時代だったと思う。トーキーの時代に入り、話すことによって、そうした芸術性が後退してしまった。最近では、アキ・カウリスマキやヴィム・ヴェンダース監督がサイレントに取り組んでいるけど、どちらの作品も非常に懐古趣味的になっている。僕が『ツバル』でやろうとしているのは、まったくそういうものではない。 僕も過去から何かを作り出すけど、あくまで未来を志向している。映画という手段で革命的なことはできないけれども、小さな一歩ではあっても映画を本来の姿に戻したい。『ツバル』では、そういう一歩を踏み出したと思う。この映画には、言葉や音声にならない叫びというものがあると思う。これはテレビやその他のメディアで言葉が氾濫していることに対するささやかな抵抗なんだ。 僕は映画を本来の場所に戻し、映像の力を取り戻したいと思っている。

――いまはデジタル全盛ですが、この映画はアナログ感覚というか、手作りの感触というものがとても印象に残るのですが。

VH 僕は古いアナログの機械には魂があると思う。機能したり、しなかったりするところも人間的だ。デジタルの機械というのは、0と1の世界で中間がない。僕はその中間にある音というのが大事だと思う。『ツバル』は製作にあたってコンピュータはまったく使ってない。この映画は非常に古い方法で撮っていて、照明なども石炭を燃料にする古いものを使った。 この映画にはそういう手法が適していたと思う。なぜなら人間は古い伝統を維持しつつも、同時に伝統から脱皮しなくてはいけないという局面があり、そういう変化に歩調をあわすことの難しさを表現するのに相応しい手段だったと思うから。

 映画で地下室にある古い機械は、プールの魂を具現している。その魂とは隣人愛だ。一方、アントンの兄グレーゴルが持ってきたデジタル機械というのは、テクノロジー、システム、プロフィット(利益)という三つの言葉で表され、グレーゴルは、プールに集まる人々がなんでそこに来ているのかを理解していない。彼は、人はプールにただ泳ぎにきていると思っているけれども、 そこに来る人は本当は人間に会うために集まっている。現実の世界に目を向けると、このプールのような場所がどんどん減っている。ヨーロッパでも昔ながらの映画館というのがどんどん減っていて、大きい劇場でポップコーンを食べながら、まるで映画を消費するような、そういう施設がどんどんできている。新しい技術というのは、人間のコミュニケーションを助けているように見えるけど、 実はそうではないのではないか。たとえばインターネットで日本とカナダにいる人が、すぐにコミュニケーションできるけれども、自分の隣に住んでいる人のことを知っているかというと、まったく知らない。

――この映画に、単なるファンタジーとは違うリアルな空気があるのは、そういう再開発やジェントリフィケーションの現実が盛り込まれているからだとも思うのですが。

VH 再開発というのは、この映画の出発点ではないけど、プールの存在を脅かしているのは誰か、一体なぜ脅かされているのかと考えてみると、いろいろ見えてくるものがある。東ドイツでも非常にたくさんのものが何も考えることなく壊された。映画でもプールにいた人たちが勝利するのではなくて、結局、壊そうとした人たちに屈服してしまうところに一種のリアリティが生まれているわけだけど、 プールを壊そうとした人たちも勝利者ではない。結局彼らもいつかは不幸になってしまうと思う。アントンとエヴァは最後に機械を救い出す。その機械というのは、心、心臓なんだ。その心は船のなかで生きつづける。そのよい魂が生きつづけるというところに、僕の小さな希望が表現されてるんだ。

――次回作について具体的になっていることがあったら教えてください。

VH 僕は監督だけではなく製作にもたずさわって、本当に自分の頭のなかにあるアイデアをかたちにしたい。それを実行するにはだいだい5年くらいかかるので、いまここで話をしてしまうと、5年後にここに来たときに、昔言ったことは忘れてしまったということになったらイヤなので、あまり話しません。とにかく何かまったく新しいことをやるつもりだ。すでに脚本には着手していて、 今回の作品と同じようにどこか一ヶ所に限定した場所の話になる。僕は他の監督の真似をするのも、自分の作品をもう一度繰り返すのもすごくイヤなので、とにかくまったく違うものになる。ただ次回も、ちょっと変わった人々の恋愛を描いたものにはなるでしょう。


(upload:2001/05/06)
 
 
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