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「『ダウン・バイ・ロー』で、脱獄した男たちが、林を駆け抜けていくところとか、僕はもう、あそこからどんどんグリフィスに戻っていくのではないかと思いましたね。やはり純化された抽象的な空間に遡行してゆくのが、映画の根源的な欲求だと思います。だから、グリフィスやラングがすごいわけで。周囲の状況や具体的な時間から切り離された抽象性、画面の実存的な光の力で、観る人の心を打つ。僕が映画館に通って、その抽象性に心を揺さぶられてきたところがあるわけで、自分が映画を作れば、それがどうしても出てしまう、というより出そうとしますよね」
しかし、異空間の外にはアメリカの現実がある。三人が乗る車を止めた警官による尋問は、彼らを単純な図式に押し込めようとする。
「映画の構図を具体的に話すと、読んだ人がそういうふうに理解するものだと思ってしまうので、背景に触れるだけでとどめておきたい気持ちはありますが、ただ最初、三人の前にある現実があって、モニュメント・バレーという浮世離れした空間に旅へ出掛け、再び現実に戻ってくるという円環は考えていました。国籍とか宗教とか考え方も違う三人が、そうした違いと無関係なところで、親近感を感じるようになる。しかし現実に立ち戻った時、その関係を維持できるのか、ということで一挙に今のアメリカと対峙しなければならなくなる。その落差を見せたい、というのはありました」
『ビッグ・リバー』を作るということは、人種や文化の異なるスタッフとキャストが空間を共有し、ひとつの世界を構築していくことを意味する。そのプロセスに、アメリカを見ることもできるだろう。
「このプロダクション自体が、僕の無意識に根づいている偏見を、他人から指摘してもらう作業でもあったんです。実はこの映画、最初はアリに娘がいて、娘と妻が逃げたという設定だったんです。ところが、パキスタン人の共同プロデューサーのモハメド(・ナクヴィ)が、それはあり得ないと。男が、浮気した妻に逃げられることはあっても、自分の娘を捨てることは絶対にあり得ないと言うんです。日本人的な感覚からすれば日常茶飯事ですし、僕はそれをやりたかった。現実にどれだけ寄りそうのかが、作家としての岐路になりました。そこでモハメドに、ニューヨークのパキスタン・コミュニティにあるレストランに連れていってもらって、五人のパキスタン人と会食して、彼らの思想や考え方などいろいろ話をしたんです。そして五人が全員、それはあり得ないと言ったので、僕には理解できない何かがあると思い、諦めたんです。物語にとってはもちろん、娘がいた方がいいと思う。でも、日本だけでなく、世界で作品を観てもらうなら、開かれた態度でありたいと思い、そこは譲りました」 |