|
内戦下のタジキスタンで映画を作りつづけ、現在ではヨーロッパを拠点に活動するバフティヤル・フドイナザーロフ監督。彼にとって3作目の長編となる新作「ルナ・パパ」では、顔も知らない男に誘惑され、身ごもった少女マムラカットが、兄や父とともにお腹の子の父親を探すドラマを通して、 不思議な世界が広がっていく。「少年、機関車に乗る」の機関車、「コシュ・バ・コシュ」のロープウェイのように、フドイナザーロフの作品では乗り物が重要な役割を担う面白さがあるが、この新作も例外ではない。「ルナ・パパ」では飛行機が物語の鍵を握ることになるのだ。しかし表現のスタイルという点では、 前2作とはまったく違う。監督自身がこの映画を?ファンタスティック・リアリティ?と表しているように、一見ファンタジーのように見えながら、現実が反映された作品になっているのだ。
――「ルナ・パパ」を観てまず驚いたのは、映画の最初から最後まで次々にいろいろな出来事が起こり、場面もどんどん移り変わるにもかかわらず、ドタバタしているような印象を与えない。確かに最初はあわただしく見えますが、ドラマが進むにしたがって、映画のリズムに同化するというか、 実際のドラマのテンポは変わっていないのに、物語はゆったりとうねっているように感じられ、その落差が不思議だったのですが。そういうスタイルというか、リズムは意識していましたか。
バフティヤル・フドイナザーロフ(以下BK)そうです、意識していました。この映画でとても重要なのはリズムなんです。そのリズムというのはただ単にリズムがあってということではなく、いまおっしゃった落差みたいなもの、そうしたリズムとリズムを結び付けて、しかも観る人にとって一種のダンスとなるような、そういうリズムを意識しました。
――これまでの作品とはリズムがまったく違うと思うのですが、そのリズムの鍵になっているものは何なのでしょうか。
BK それぞれのストーリーは、独自のリズムを要求するものなんです。今回は非常にリズムに溢れています。なぜなら、胎児の視点から見ているからです。日本では胎児がお腹のなかにいるのは10ヶ月といいますけど、その10ヶ月間、胎児は、心理状態などとは無関係に、ただ本当にクレイジーなリズムのなかで生きている。お腹から出てしまうと、 今度はまた異なるリズムでの生活が始まります。私は、この羊水のなかのクレイジーなリズムに、心理というものが生まれる前の本質的な生命を感じるのです。この映画は、胎児が語り手なので、そのリズムを持ってきたわけです。
――これまでの3本の作品を振り返ってみると、兄弟の物語である「少年、機関車に乗る」では母親が不在で、長男が母親のイヤリングをお守りがわりにしています。「コシュ・バ・コシュ」も、ヒロインの家庭に関していえば母親が登場しません。新作の主人公一家も母親が不在で、 ヒロインがこれから母親になっていく物語であるというように、母親の存在が逆の意味で印象に残るのですが、母親というものに対して特別な意識はありますか。
BK 私たちは子宮の外に出て、結局、母親から離れ、巣立っていくという現実があります。しかし、母親のしずくというか、母親の傍にいたときのその感覚というものを、それぞれの作品のなかで何とか伝えたいといつも思うんです。だから、母親というものがある需要に基づくひとつの対象になってしまわないように、あえてそれを排除する。 排除するとはどういうことかというと、人は母親の不在によって抑圧され、自分に欠けているものを探そうとする、そういう緊張感のようなものを生みだすということです。これは私の話法というか、ドラマツルギーなんです。そんなふうにして、あなたが的確におっしゃったように、母親の存在、目に見えない存在というものを伝えたいと思ってきたわけです。
――あなたの個人的な体験がそうした表現に影響を及ぼしているということはありますか。
BK 私の母親と私の関係はごく普通で、個人的な体験を持ち込むというよりは、むしろ哲学的なものだと思います。唯一、個人的な要素があるとすれば、いつか母親を失う、それは大きな事件であり、私たちは心の準備をしていかなければならない、そうした一種の不安ですね。そういう要素は作品に持ち込んでいます。でもこれは、 私と母親の個人的な関係を持ち込んでいるということではありません。
――あなたの映画では必ず乗り物が出てきます。たとえば機関車を運転手が自分の家で止めたりとか、ロープウェイを私物化して自由に使うことには、浮遊感というか解放感があります。新作の飛行機のパイロットも、勝手に飛行機を着陸させて、情事にふけるとか、同じ私物化のイメージがあることはありますが、 この映画では、乗り物がもっと別な効果を発揮しているように思えるのですが。
|