アキ・カウリスマキ・インタビュー
Interview with Aki Kaurismaki


2000年4月 渋谷
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(初出:「白い花びら」劇場用パンフレット)

 

 

根無し草の楽園回帰

 

 アキ・カウリスマキが新作『白い花びら』でどんな世界を切り開くのか、筆者はとても楽しみにしていた。というのも前作の『浮き雲』を観たときに、彼のなかで何かが変わりつつあるように思えたからだ。

 カウリスマキの映画の登場人物たちは、きっとどこかにあるはずの"楽園"への願望を胸に秘めている。これまでの映画では、その願望は叶えられることがなく、 登場人物たちは苛酷な現実に追われるように未知数の世界へと旅立っていった。しかし『浮き雲』の主人公たちの場合は違っていた。そろって失業した夫婦は、困難な状況のなかでも労働者としての誇りを失うことなく、 最終的に労働者が集うレストランという楽園を、自分たちの足元に築き上げる。この映画では、どこへも行くことなく、揺るぎない理念によって現実と対峙する姿勢が際立っているのだ。

「わたしが『浮き雲』を作ろうとしていたとき、フィンランドでは失業率が22%にも達し、友人たちも破産の憂き目にあっていました。それほどたくさんの人たちが仕事を失い、 国中が絶望に覆われている状況のなかで、わたしはこの問題を見つめる映画を作りたいと思ったのです。結末については、ハッピーエンドにするしかありませんでした。 これはわたしが作った唯一のソーシャル・セラピー的な映画です。ただ本当は結末をもっと非情なものにしたいと思っていたので、納得がいかないという気持ちもありますが…」

 このカウリスマキの言葉からすると、『浮き雲』はあくまで例外的な映画であり、彼の変化が反映されたわけではないことになる。ただし『浮き雲』で筆者が印象的だったのは、 必ずしも結末がハッピーエンドであるということではなく、主人公の夫婦がどこへも行かず、しっかりとその場所を踏みしめているということなのだが、その点についてはカウリスマキ自身も変化を意識している。 その変化は、彼が現在ポルトガルで暮らしていることと関係があるようだ。

「少年時代のわたしは、父親の仕事の関係であちこちを転々とする暮らしを送っていたせいで、絆やルーツというものを見出すことができませんでした。フロイト流に解釈すれば、そのことが、 わたしの映画の登場人物たちが根無し草であることに反映されているということになるでしょう。確かに以前のわたしの映画では、登場人物たちはいつもフィンランドを去っていきました。しかし今では、 わたし自身がフィンランドを去ってポルトガルで暮らすようになって、今度は登場人物たちがフィンランドにとどまるようになりました。彼らはきっとフィンランドにとどまりつづけるでしょう。 わたしは彼らをポルトガルに連れてくる気はありませんから(笑)」

 ここで注目したいのは、彼がフィンランドを去ったことよりも、ポルトガルという定まった場所に暮らしていることだ。その暮らしがどんなものであるのかはともかくとして、自らも根無し草だった彼は、 何らかのかたちで根を下ろしつつある。だからこそ「浮き雲」の夫婦はどこへも行かず、自分たちの足元に楽園を築くのだ。

 そして新作の『白い花びら』もいろいろな意味でルーツを意識した作品になっているといえる。映画の原作はフィンランドの国民的な作家ユハニ・アホの小説であり、 カウリスマキはその原作をいまあえてサイレントで映画化したのだから。またさらに、この小説のどんなところに魅力を感じたのかという質問に対する彼の答にも、ルーツへの意識を垣間見ることができる。

「わたしにはこの小説のなかにいろいろな象徴があるように思えました。華やかなネオンが瞬く都会は田舎の人間にはとても魅力的に映ります。フィンランドでは人々がみんな田舎から都会に出て行ってしまったために、 農村や農業は死につつあります。農村で男たちは、年老いた母親と暮らし、結婚相手を見つけることもできない。そうやって衰退していくのです。わたしは自分の頭のなかではそんな状況を強く意識していましたが、 これはそのことを描く映画ではないので、前面に出してはいません。それでもいろいろなかたちで田舎や農村が死にゆくさまが映画に現れているのではないかと思います。原作では川がユハとマルヤを隔てる象徴となり、 ユハは川に落ちて死にますが、わたしは現代社会でその川に相当するのはゴミ捨て場だと思い、その部分を変えたのです」

 確かにこのゴミ捨て場の場面は田舎の死を印象深く浮き彫りにしている。田舎を象徴する存在であるユハは、現代消費社会を象徴するようなゴミ捨て場で死んでいくからだ。しかしユハの犠牲によって救われ、 都会の雑踏を逃れていくマルヤと赤ん坊の姿には、ささやかな希望を見ることができる。

「ラストは明確にしませんでしたが、わたしの頭のなかではマルヤは田舎に帰っていきます。わたしは彼女が雑踏のなかで人々と反対の方向に歩いていくようにしました。彼女は都会にとどまることはない。我が家に帰っていくのだと思います」


◆プロフィール
アキ・カウリスマキ
1957年フィンランド、オリマティラ生まれ。 ヘルシンキの大学ではコミュニケーション論を学ぶ。在学中は大学新聞をひとりで編集するなど、すでに単独者としての片鱗を見せる。そのかたわらフィンランドの代表的な映画雑誌にも盛んに寄稿する。雑誌編集にも積極的に参加し、 全ページを別のペンネームで書き分けるなど異才ぶりを発揮。その後、映画評論家としてキャリアをスタートさせるが、評論だけには留まらずシナリオ作家、俳優、助監督など数々の仕事に携わり、1980年兄ミカが監督した中篇『Valehtelija』に俳優として出演。 最初の長編監督作品は83年のドストエフスキー原作『Crime and Punishment(罪と罰)』である。この作品がフィンランドのオスカーにあたるユッシ賞の第1回最優秀処女作品賞と最優秀脚本賞をダブル受賞し、一躍注目を浴びる。 さらに東京国際映画祭ヤング・シネマにも出品された「パラダイスの夕暮れ」(86)が、カンヌ映画祭監督週間をはじめ各国の映画祭に招待され世界の映画人の注目を集める。 カウリスマキ兄弟は1981年にゴダールの「アルファヴィル」から命名した映画会社<ヴィレアルファ>を設立、また<センソ・フィルムズ>という配給会社も所有しており、ヘルシンキ中心部には<シネマアンドラ>という映画館も運営している。 日本では1990年、フィンランド出身で世界的に人気のあるバンド、レニングラード・カウボーイズの映画「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」で注目され、同じ年「真夜中の虹」「マッチ工場の少女」と立て続けに公開。 この都市が日本における実質的なカウリスマキ元年となる。その後は「コントラクト・キラー」「ラ・ヴィ・ド・ボエーム」「愛しのタチアナ」など新作が出るごとに順次公開され、 最近では1997年に公開された「浮き雲」がアキ・カウリスマキ・ファンにとどまらず広く一般にもその魅力が受け入れられ大ヒットした。 (「白い花びら」プレスより引用)

 

 

 
 
 
 


 この映画は『浮き雲』のようにハッピーエンドにはならない。しかし生き残ったマルヤはどこか未知数の世界へとに旅立ってしまうのではなく、自分のルーツへと戻っていくのである。それはカウリスマキの映画における"楽園"の変化を意味している。

 彼の以前の映画では楽園はきっとどこかにあるはずのものだった。その楽園は、彼の映画における時代や時間の扱い方と結びつきがあるのではないかと思う。

「時代についてはいつもタイムレスな設定をしようという気持ちがあります。たとえば普通は、70年代と50年代の家具を組み合わせるようなことはしないと思いますが、わたしは同じ画面のなかにいつも異なる時代を混在させています。 そして最終的には50年代へと戻っていく傾向があります。わたしは実際にその時代を体験したわけではありませんが、とても好きな時代なのです。誰もが経済的には貧しかったが、とてもイノセントで、もっとお互いに助け合い、幸福な時代でした」

 タイムレスなカウリスマキの世界のなかで、きっとどこかにあるはずの楽園は、この失われた幸福な時代に繋がっている。だからこそ登場人物たちが胸に秘めた楽園への願望は叶えられず、彼らは未知数の世界へと旅立つ。 しかし、『浮き雲』の夫婦は自分たちの足元に楽園を見出し、『白い花びら』の物語は、農村という楽園から始まり、そこに戻っていくことになる。

 この『白い花びら』の物語は、非常にシンプルであり、通俗的にすら見えるが、筆者には深い寓意が込められているように思える。そのヒントになるのは、カウリスマキのこんな言葉だ。

「この映画の最も重要なポイントは、ラストの少し前の場面にあります。ゴミ捨て場に向かう前に、ユハはマルヤと赤ん坊をタクシーに乗せます。その時、彼はすべてを許します。 この場面にはブレッソンやカトリック的な意味での慈悲の心があります。わたしとしては、この場面はもっと非情なものにするつもりでしたが、カメラが回っているうちに、すべてが許されなければならないと思ったのです」

 この映画は冒頭からもうひとつの物語が見えてくる。ユハとマルヤはバイクに乗って市場にキャベツを売りに行く。農業を営むこの夫婦にとって野菜を売ることは日常的な行為であるはずだが、この映画は、 まるでその行為が生まれて初めての経験であるかのように描いている。彼らのキャベツは飛ぶように売れ、箱にお金がたまっていく。そのお金をとらえたショットを見るとき、このドラマが聖書の引用になっていることに気づく。

 イノセントな夫婦は静かな楽園で子供のように幸福に暮らしている。しかしキャベツをお金にかえる瞬間、そこに消費社会における原罪が暗示され、彼らは無意識のうちに堕落への一歩を踏みだしている。 そして気づいたときにはマルヤのように、人間そのものが消費されているのである。

 このもうひとつの物語は、サイレントで描かれるからこそ見えてくる寓話である。カウリスマキはこれまで、ブレッソン、クレール、キャプラ、デ・シーカ、ラングなど作品ごとに様々なスタイルを取り込んできた。 そんなふうに映画的な記憶を自在にたぐることによって、できるだけ台詞に依存することなく物語を語る寡黙なスタイルを作りあげてきたのだ。そういう意味では、『白い花びら』はひとつの集大成、結晶といえる。

「そうあってくれればいいと思います。わたしには映画の本質を追求していくうえで、指針となるような完璧な映画のかたちというものがあります。ふたりの人物が壁の前に立っているとします。 まずそのひとりが画面から姿を消します。壁ともうひとりの人物が残り、そこに影があります。次にもうひとりの人物がいなくなる。そこにも影がある。次に壁を取り去る。そこにも影がある。次に照明を落としてしまう。 そこにも影が残る。それが映画のひとつの本質なのです。『白い花びら』の場合には、もはや映画そのものを取り去る以外には何も残らないところまで行きました。あれ以上先には行けないということです」

 カウリスマキはこの映画で、台詞に依存することなく、驚くべき感性で映像と物語を絡み合わせ、人間と映画の本質を掘り下げていると思う。物語はイノセントな主人公たちが消費社会のなかに引き込まれ、 堕落していく過程を寓話的に描き、映像はそんな展開に呼応するように、20〜30年代のメロドラマから50年代のフィルム・ノワールへと変化していく。彼はこの映画で、消費社会と映画の歴史をひもとき、 異様な説得力で人間性が失われた現代という時代を浮き彫りにしてしまう。そして、人間的な愛情ゆえに自分を犠牲にするユハと彼の慈悲によってルーツに戻っていくマルヤの姿に、人間性回復への希望を託すのである。

 かつて根無し草だったカウリスマキは、いまどこかに確実に根を下ろそうとしている。彼が根を下ろすのは、必ずしもポルトガルという具体的な場所であるとは限らないだろう。場所ではない内面的な世界のなかで、根を下ろしていくということもありうるからだ。

「わたしはこれまで、文学や心理的なドラマからロケンロールまでいろいろな映画を作ってきました。そこに登場する人物たちは、わたしの若い頃の記憶がもとになっています。建築作業員や皿洗いなど、 いろんな仕事をしたときの体験をもとに、人物を作りあげているということです。しかし20年間も映画の世界にいたおかげで、ストリートは遠いものになり、人々を観察することができなくなりました。 いまでは外から吸収したもので物語を作るのではなく、何もないところから作りあげているという気がします。一般的にいえば、次回作は、ガンアクションやSFを撮るのがノーマルなのかもしれませんが、幸運にもわたしはノーマルではありません。 だからこれからも人間の本質を見つめる映画を作っていきたいと思います」

 このインタビューの最初に、筆者が『白い花びら』に込められた象徴的なイメージについて尋ねたとき、カウリスマキはこんなふうに答えた。

「ルイス・ブニュエルにならってお答えしましょう。わたしの映画には象徴主義というものはありません。しかし、ブニュエルはとんでもない嘘つきでしたが(笑)」

 そしてインタビューの最後に、筆者は彼の映画によく出てくるアヒルのオモチャの意味について尋ねてみた。

「意味があるのかもしれないが、自分ではわかりません。ダリやピカソが自分の作品に入れるサインみたいなものです。他の答え方をすると、またフロイト的な話になりそうなのでやめておきます(笑)」

 いかにも台詞に依存することなく、映像で語りきろうとするカウリスマキらしい言葉である。

 

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