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映画のなかで、家に戻ったビリーに対する両親の態度は決して暖かいものではない。母親はテレビのアメフトに熱中し、父親の態度には息子に対する敵意が見え隠れする。
そんな家族の姿から察せられるギャロの少年時代は明るいものとは言いがたいが、ニューヨークに自分の居場所を見出した彼は、なぜそんな過去を振り返ろうとするのだろうか。
「オレはひとりの人間として自分がそれほど面白い人間だとは思わない。ばかげたエゴやコンプレックス、怒りや強迫観念にいつも振り回されている。
しかし明確なヴィジョンを持った映画を作ることによって、そんな自分というものを乗り越えられると思う。そこにオレが映画を作ろうとする動機があるんだ」
■■コントロールする欲望の原点■■
サバービアの生活は、いろいろな意味でギャロの創作に影響を及ぼしているように思える。たとえばそれは、主人公ビリーの潔癖症ともいえる性格だ。彼は出所直後に尿意をもよおすが、
少しでも人目があると用が足せないらしく、必死にトイレを探しつづける。レイラを拉致した彼は、彼女のクルマに乗り込むときにフロントガラスの汚れに気づき、
緊迫した状況であるにもかかわらず、彼女にきれいにするよう命じる。さらに彼は、自宅のベッドルームから仲間に電話した後で、ベッドカヴァーの皺をきれいにのばすのだ。
「まず最初に、そのことに触れてくれたことにお礼を言うよ。これまでのインタビューで一度も尋ねられたことがなかったから。オレは病的な習慣について考えていたんだ。
もしオレがああいうとんでもない両親と生活していたら、どんな習慣が生まれることになるかってことだ。これは、怒りに駆られる人間がどうやって体系的に自分をコントロールし、
人生の苦痛を生き延びる道を探し出すかという社会学的なコンセプトに基づいている。仲間に電話した後の主人公の行動はまるで精神病者だが、それは同時に自分をコントロールする行為でもあるんだ」
このコメントはとても興味深い。ギャロはアメリカのあるインタビューで、自分のことを"コントロール・フリーク"というように表現している。 これは、自分がすべてを完璧にコントロールすることを求めるということであり、もちろんクリエイターであれば誰もが求めるものではあるのだが、ギャロの場合には、 この完璧なコントロールということがもっと特別な意味を持っているように思える。彼には、コントロールに対するオブセッションがあり、それが映画の主人公の心理から映像表現にまで深い繋がりを持って反映されている。 この映画では、ビリーとレイラ、彼の両親の4人が食卓を囲む場面、ビリーがファミリー・レストランで昔の彼女に遭遇する場面、ビリーとレイラがスピード写真を撮る場面などで、画面を切り取る構図が緻密に計算され、 登場人物たちの感情の軋みや距離感が巧みに強調されているのだ。
「オレはフィルムメイカーになる前に画家をやっていた。絵画におけるオレの言語は、構図やコントラスト、色彩であり、それは映画の表現に直接翻訳されている。
オレは撮影監督のスタイルを完全に排除し、構図とかをすべて自分で決めてから現場に撮影監督を入れるんだ。この映画では最終的に3人のカメラマンを使うことになったが、映像の違いはまったくないはずだ。
なぜなら、現場で撮影したのはカメラマンであっても、最終的な映画を撮っているのはカメラマンではないからだ。オレは撮影が終わってから1年かけてそのフィルムをどのように発展させるか考え、大きく手を加えている。
だから、この映画を観て撮影が素晴らしいと言われることがあるが、それは撮影ではなく、様々な要素がまとめあげられた映画なんだ」
ギャロが撮影後のフィルムを具体的にどのように発展させているのかということに話を進める前に、筆者が興味をおぼえるのが、ギャロとデイヴィッド・リンチの感性の共通点だ。
リンチもその独特の感性の出発点に(特に50年代の)サバービアの世界があり、また画家であることが映画に少なからぬ影響を及ぼしている。そういう意味で、ギャロがリンチの映画をどう見るのかぜひ尋ねてみたいと思ったのだが、
彼はこれまでにまったく別の次元でリンチとの共通点をうんざりするほど指摘されているらしく、リンチの名前をあげただけでこんな答が返ってきた。
「オレはリンチをフィルムメイカーとしても人間としてもまったく好きになれない。彼の作品はほとんど観ていないが、『イレイザー・ヘッド』は耐えがたい。
オレは7千本の映画のヴィデオをコレクションしているが、そのなかのどんな監督や映画の影響も受けていない。映画はあくまでファンとして観るんだ。野球だったらオレはミッキー・マントルが好きだったが、
自分が野球をやることになってもマントルと同じようにプレイするわけじゃない。自分が野球はこうあるべきだというプレイをするんだ。映画に風変わりなキャラクターが登場すると、みんながそろってリンチの影響だという。
しかし、あのクソ野郎があの胸くそ悪くなる作品でデビューする前から映画にそんなキャラクターは存在していたんだ」
■■ギャロが試みる映像と音楽の冒険■■
風変わりなキャラクターが登場するだけでリンチの影響にされては確かにたまったものではないが、筆者としては、サバービアで培われた感性が視覚的にどのような発展を見せていくのかという意味で、
ふたりの世界を対比してみるのは面白いと思う。共通する背景から発展する方向性の違いがより明確になるからだ。ギャロがこの映画で試みる映像の冒険は明らかにリンチとは違う。
「この映画は、テレビで放映されるときに構図や色彩がどのように変わるのかということまで計算して作ってある。普通の映画作りでは絶対に無理なことをやっているんだ。
フィルムをテレビのフォーマットに変換するために、1時間で800ドルもとられるパネル・スキャンという装置を使い、4週間と4万ドルを費やして、テレビにもフィットする作品に仕上げた。
この映画はある意味では、テレビやヴィデオで観た方が完璧という部分もある作品になっている。パネル・スキャンというのは、普通は最初の2分くらいで色調などを調節して、単純に映画をテレビのフォーマットに変えるだけの装置だが、
オレはそれで毎日自分の映画を見つづけ、すべてのカットの構図や色調について細かくメモをとり、調整していった。だからどのカットも違う色を持っているし、完璧で美しいんだ。
それはもう撮影監督が撮った映像とはまったく違うものになっているんだ」
多くの映画監督は、映画とテレビを別のメディアと考えていると思うが、ギャロはそこに境界を設けることなく、映画をテレビと結びつけることによって、自分が完璧にコントロールすることができる環境を作りあげてしまう。
このようなテレビに対する意識は、誰もがテレビにかじりついているサバービアの生活を彼が嫌悪していたことを考えると意外な気もするが、彼の膨大なヴィデオのコレクションが物語るように、
彼にとって映画とテレビやヴィデオは非常に近いところにあるメディアなのだ。
そんなふうに既成の境界を消し去ってしまうようなアプローチは、音楽に対する彼の感性にも現れている。『バッファロー'66』のサントラでは、ギャロ自身の音楽とキング・クリムゾン、
イエスやスタン・ゲッツが違和感なく並んでいるのが印象に残るが、音楽生活の方でも彼はそのコントロール・フリークぶりを遺憾無く発揮している。
「オレは1万5千枚のアルバムを持っていて、そのジャンルは何でもありだ。この2、3年のあいだでオレがいちばん面白かったことは、アメリカをクルマで横断したことだ。ニューヨークとロスを往復するんだ。
その途中でレコード屋に立ち寄って、持ってないアルバムは片っ端から買いまくる。カントリー&ウエスタン、クラシック、ポップス、ディスコ、持ってなければ何でも買う。
それから家に戻って、全部聴いて、最高の曲や曲の一部、瞬間だけをテープに再編集する。つまらないレコードから最高の瞬間をとらえたテープが出来上がるのさ。
それは最高にファンタスティックだ。どんなつまらない曲にもイケてる瞬間ていうものがあるってことさ」
ギャロにとって、「人類の進化」に貢献する表現とは、これまでにない独自の言語をあみ出すことだといってよいだろう。彼は、好きな監督としてブレッソンやパゾリーニとともに小津をあげ、こんなふうに語る。
「オレは昔、パリで行われた小津の回顧上映に20日間毎日通い、40本の作品を観た。字幕はフランス語だから、言葉などはまったくわからないし、あらすじのパンフもなかった。でもそれはオレの人生のなかで最高に素晴らしい瞬間だった」
『バッファロー'66』で、主人公ビリーは、潔癖症の習慣によって自己をコントロールしようとし、ギャロは、監督、脚本、主演、音楽のみならず、撮影までも完璧にコントロールする。
この映画の言語をユニークなものにしているのは、不安定な自己を乗り越え、世界との調和を求めようとするギャロの強烈なオブセッションなのだ。 |